米磨桶《こめとぎおけ》もあれば手桶もあり、荷桶もあれば番手桶《ばんておけ》もあり、釣瓶《つるべ》の壊れたのまで、ごろごろしているところを見れば、今日一日の雇いきりに限らず、当分失業問題は起らないものと見なければなりません。
お松は困ったと思ったが、どうも仕方がない――何かの機会にこの桶屋さんが、ちょっとでもこの座を立つ機会を待って素早く使命を果してしまうよりほかはないと思いました。
そこで、暫くあちらこちらさまようて、桶屋さんの動き出す隙を待っていたが、泰然として座を構えこんでしまった桶屋さんは、容易に動き出さないのです。いいかげんの時分になると、座右からかます[#「かます」に傍点]を取り出して、カチカチと火をきって、ぷかぷかと二三ぷく煙草をのんでしまっては、さて悠々と、老木の梢の上なんぞを上目づかいでながめて、鶯《うぐいす》がどこへ来ているか、雀が何羽止ったかという数なんぞ読んでいる様子が、お松にとっては、いよいよ小憎らしいばかりです。
そこで、遠廻りをして臥竜梅のうしろの方へ廻り、そこから桶屋さんの隙をねらって、うつろへ投げ込もうかとしましたが、気のせいか、どうもこの桶屋さんが、それとなく自分の行動を注意しているように思われないでもありません。
とうとう、近づきかねたお松は、いったん瑞巌寺の外へ出てしまって、法身窟のあたりの小暗い杉の中を歩み歩み行きました。
「どうも仕方がない、あの桶屋さんに追立てを食ってしまったようだ、なにも桶屋さんがわたしの仕事に意地悪をしようとしてあそこにいるわけではないが、わたしにはそうとしか思われてならない、ただの桶屋さんにしては、なんだか気が置け過ぎるのが、つまりわたしの疑心暗鬼というものでしょう、あの桶屋さんに圧迫されて、知らず識《し》らずわたしははみ出されたようなことになってしまった――どうも仕方がない、もう少し、よそを歩いて、また来てみましょう」
お松はこんなひとり言を言って、お弁当を抱えたまま、まもなく松島の海岸の方をぶらつきはじめました。
お松がこうして臥竜梅の下から圧迫され、ハミ出されたのと反対に、庫裡《くり》からひょっこりと身を現わしたのは田山白雲でありました。
白雲は極めて気軽に出て来ましたが、手には写生帖と矢立を持って、早くもこの臥竜梅の姿に目をとめながら、近づいたり、やや遠のいたりして、ためつすがめつ、この木ぶり、枝ぶりを見ているのです。
その有様は虚心坦懐で、眼中にただ、梅の木の木ぶり枝ぶりあるのみ。ちょっと当惑するのは日ざしの具合で、まぶしい感じがする時、左右に紙と筆とを持っているものだから、小手のかざしようがないだけのものです。
ですから、お松をしてあれほど焦心せしめた桶屋の存在などは、最初から念頭になく、木ぶりのみをためつすがめつしていたが、ついには或る地点で行きつ戻りつしているところを見ると、この梅を写生せんがための足場をきめるための働きであること申すまでもありません。
そこで、田山白雲は、いいかげんの地点を選定し得たと見えて、やがて、筆を動かし、写生をはじめました。
こうなると一心不乱の形で、この臥竜梅の形神を、五彩の間《かん》に奪い去ろうとの熱心が見えないではありません。
ところが、お松を悩ませた臥竜梅の下の桶屋さんなるものは、その手許《てもと》を見ていると、存外不器用で、且つ不熱心と思われないでもありません。本来ならばお松が通りかかろうとも、白雲が出現しようとも、桶屋さんはその職業に於て一心不乱であり、またその職業としてもこのくらいの年配になれば、相当の業前《わざまえ》を見せなければならないはずなのに、お松が来れば来たでよそみをし、白雲が出れば出たでそっとその人相をうかがうような目つきがいやです。
しかし、気分に相当の差異こそあれ、二人ともにその職業とするところに一心であることは同じようなものですから、あえてこの寂《さび》のついた庭の面を荒すというようなことはありませんでしたが、不意に、二つの珍客が舞い込んで攪乱《こうらん》しました。
「あ、いたいた、田山先生がいたよ」
「茂公か――」
田山白雲が、思わず写生の筆をとどめて見入ると、まごうべくもない清澄の茂太郎と、それから、もう一つの珍客はムク犬です。
ムクは、この著作に於てこそ、かなり知名にして有要な役目をつとめつつある犬ですけれども、田山白雲とは未《いま》だ相識の間でもなく、まして入魂《じゅっこん》の間柄でもありませんでした。
白雲が船へおとずれた時は、ムクはひそかに睡眠の不足を船底のいずれかで補っていたかと見える。白雲がこちらへ来るまで誰も引合わせなかったものですから、この時、これは素敵な大物を茂公が連れこんで来たものだわい――この小僧は、山に入って猛獣毒蛇とも親しむだけ
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