持って来ると言ったが、そのみやげたるや」
ここまで来た時に、あわただしくこの部屋の前に立ったのが、清澄の茂太郎でありました。
「田山先生――」
「やあ、茂坊か」
「入ってもようござんすか」
「お入りなさい」
と許諾を与えたのは、駒井甚三郎でした。
そこで室内に走り込んだ清澄の茂太郎が、まず田山先生に向って問いかけたのは、次の言葉であります。
「田山先生、七兵衛おやじはどうしたの?」
「今もそれを話していたところだ、おっつけこれへ、おみやげ持ってやって来る」
「そうか知ら――あたいは、どうも、あの七兵衛おやじはもう、ここへ来られないように思われてならない」
「どうして?」
それを聞き咎《とが》めたのは白雲でしたが、さっと面《かお》の色を失ったのはお松でした。
「どうしてって……」
茂太郎は、むずかるような声で、
「あたいはどうも、七兵衛おやじが怪我をしたように思われてならない」
「怪我!」
「怪我ならいいが、もしかして、縛られてしまやしないかと……」
「何を言うのです、茂ちゃん」
お松がたまりかねてたしなめると、茂太郎は、
「どうしても、あの七兵衛おやじの身の上に、変ったことが起ったに違いない」
「そんなことが、わかるものですか」
「だって、あたいは、もう二日というもの、あのおやじが、つかまって、縛られて牢屋へ入れられたところを夢に見た」
「ほんとに、いやなことばかり、茂ちゃん――何も悪いことをしない人が、縛られたり、牢屋へ入れられたりなんかするものですか」
「そうかしら、でも……」
「それに、白雲先生と、つい一昨日《おととい》、お話をしていたと申します、いやなことを言うものではありません」
「そうか知ら……」
その時、田山白雲が、茂太郎の面を睨《にら》みつけるように見詰めて、そのくせ、心は玉蕉女史の家の離れのあの一夜のこと――王羲之《おうぎし》の秘本を土産に持って来ると誓った、夢のような、幻のような場面に集中しないわけにはゆきません。
そうして、その夜の、あのおやじの怪挙動を、逐一《ちくいち》ここで話したがよいか、もう暫く話さないでおいた方がよいのではないか――と、猶予し、且つ思案せしめられました。
十二
問題の七兵衛は、その日は観瀾亭の床下に昼寝をしておりました。
七兵衛が昼寝をするということは、盗人の昼寝という本文に合致す
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