さんかん》にもなって、相当の時が来れば、そうそういい気持で内職の船を漕いでばかりはいられないと見えて、一人、二人ずつ面《かお》が揃ってくると、早くも、
「おや、ボートが一ぱい足りねえ――おや、船窓があいている、マドロスが――もゆるさんが――まあ、荷物が――」
二人の姿が全く親船の中から見えないのです。二人ともに、手廻りの物が程よく取りまとめられて持ち出された形跡も充分ですから、合意の上で逃げたものと見るよりほかはありません。どちらがどうそそのかしたか、そのことはわからないが、いずれにしても、相当の合意をもって計画的に馳落《かけおち》を遂げてしまったということは、疑う余地がありません。
呆《あき》れ返るもの――罵《ののし》る者――地団駄を踏む者――直ぐに追いかけて、あん畜生、とっ掴まえて今度こそはと、マドロスを憎むこと骨髄に徹する者もある。もゆるさんももゆるさんだ、何だってあんな毛唐にだまされて、いったい、あのウスノロのどこがいいんだ――と歯噛みをする者もある。
お松としては、言句《ごんく》も出ないほど浅ましい感に堪えなかったので、傍《かた》えにいたムクをつかまえて、こんなことを言いかけてみました。
「ムク、お前が昨夜《ゆうべ》、あの二人の逃げ出すのを、気がつかなかったというのがおかしいわね、あの二人は当然ここを出て行くべき人なんだから、それでお前が知っていても止めなかったの――ここにいるよりも、出て行く方が二人のためにも、船のためにもいいと思ったから、それでお前が見逃したの、どちらだか、わたしにはわからない。お前がいながら、二人を無事に逃がした気持が、わたしにはわからない」
こういってムクに言いかけたが、その傍にいた金椎《キンツイ》が、一種異様な表情を試むるだけで一言も吐かないのは、体質上是非もないが、兵部の娘とは切っても切れない馴染《なじみ》を持っているはずの清澄の茂太郎が、ここへも姿を現わさないし、ウンだとも、つぶれたとも言わないのも異例の一つです。
と思いやる途端に、親柱の上高く人の声がする、
「ああ田山先生が来る――七兵衛おやじは来ないけれども、田山白雲先生がやって来る」
もう、あんなところに登っている。
どこの方角を、どうながめているのか知らないが――遠く眼を空と山との間に注いで、そうして、人が来る来ると呼んでいる。果してその方角から来る人が
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