ってお通りになったので、どうすることもできず――御面会のために群がる者へは、
「越中守殿は卒中にて倒れたが、只今、粥《かゆ》一椀を召上られたから心配御無用、御療養中、面会は一切おことわり――」
ということで、とりあえず細川家へ急をお告げになりました。
細川家では、その翌日、「細川越中守宗孝、薬用叶わず、卒中にて卒去」ということの喪を発しましたが、暗殺は公然の秘密に致しましても、伊達家の証明|如何《いかん》ともし難く、病気ということで公儀の取りつくろいも一切御無事に済みました。
これはこれ、有徳院様お代替りの延享四年十月十五日のことでございました。
御承知の通り、国主大名が殿中に於て非業《ひごう》の死を遂げた場合には、家名断絶は柳営《りゅうえい》の規則でございますから、伊達公のお通りがかりが無ければ、細川家は当然断絶すべき場合でございました。そこで、細川家が再生の恩を以て伊達家を徳とすることは申すまでもございません――その時に、細川家で家老たちが相談をして、文禄朝鮮征伐の時の王羲之の孝経の半分を持ち出し、いささか恩義に酬ゆるの礼として、これを伊達家に御寄贈になりました。これで細川家五十五万石が救われ、王羲之の孝経は完全な一巻となって、伊達家に秘蔵される運命になったのだそうでございます。
右の来歴を逐一《ちくいち》聞き終ってみると、白雲はあきらめたようなものの、せめて、その※[#「(墓−土)/手」、第3水準1−84−88]本《もほん》でも、うつしでも、片鱗でも見たいものだと頻《しき》りに嘆声を発しました。
玉蕉女史も、来歴のことだけはかなりくわしく知っているが、その片鱗をもうかがっていないことは白雲と同じ、そうして、しきりと渇望の思いにかられることも同じであります。
けれども、結局、いかに執心しても、こればかりは我々の歯が立たないということに一致し、徒《いたず》らに王羲之の書――その他の書道の余談に耽《ふけ》ることによって、夜もいたく更けたようです。
いつまでたっても話の興はつきないが、この辺で御辞退と白雲も気を利《き》かせると、廊下伝いの立派な客間へ白雲を案内させて、美しい夜具の中に、心置なき塒《ねぐら》を与えくれるもてなしぶりに、白雲もなんだか夢の国へでも来たような気持になって、うっとりと、その美しい夜具の中に身を置いてみると――王羲之を中心としての話
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