来たところの漂流者の中の一人であるということは疑いがありません。
時は寛政五年十一月、石巻の船頭で、平兵衛、巳之助、清蔵、初三郎、善六郎、市五郎、寒風沢《さぶさわ》の左太夫、銀三郎、民之助、左平、津太夫、小竹浜の茂七郎、吉次郎、石浜の辰蔵、源谷室浜の儀兵衛、太十ら十六人、江戸へ向けての材木と、穀物千百石を積んで石巻を船出したが、途中大風に逢って翌六年二月まで海と島との間を漂流した。ようやく漂いついたところが露西亜《ロシア》領のオンデレケオストロという島。
その島の島人のなさけでとどまること一年ばかり、穀物は無く、魚類のみを食べていた。
七年四月三日にまた船に乗って島々を過ぎ、陸地を渡り、エリカウツカというところに着いて、総勢一家を借りてすみ、住民の情けにめぐまれ、或いは日雇となって働いて賃銀を得ること八年、その後モスコーを経て、ロシアの港ビゼリポルガというところで皇帝に謁見《えっけん》を賜わった時分には、一行のうち六人のものはもう死んでいた。
ここで皇帝から帰るものは帰るべし、とどまろうとするものはとどまるも差支えなしとの仰せによって、四人は帰り、六人はとどまることになった、その帰国四人のうちの一人が、すなわちここにいる老人である。
かくて文化元年正月、かの地を発船し、マルゲシ、サンベイッケ等を経て、七月の初めカムシカツカに着き、翌月発船して九月長崎に帰る――
という物語。それを繰返し、引集めて要領をとってみると、まずロシアの地に漂着し、そこで大部分を暮し、それからシベリアを経てウラル山脈を越え、モスコーを経てペテレスブルグに至って、ロシア皇帝に謁見し、公使レサノットに従ってカナシタの港を出て、大西洋を経、アメリカのエカテンナというところへ行き、それから、サンドーイッチ島を過ぎてカムチャツカに入り、長崎に帰るという順路、寛政五年から十三年目で故国へ帰ったという筋道だけは分る。
右の話のうちにも、地名だの、方角だの、ずいぶん混線したり、聞き馴れないところが多いが、それでも地理の素養の深い駒井には、よく要領を受取ることができました。
なおくわしくは、明日自分の船長室へ連れて来て、地図についてくわしく問い質《ただ》すことにして、それから余談に移ると、老人は一年ばかりの間、米も粟もなく、魚ばかり食べていたことがあるの、はじめて麦のパンを与えられた時の嬉しさだ
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