国々を経巡《へめぐ》って来たことに於ては、あのマドロスさんなんぞより、遥かに世間が広いらしうございます」
「ははア、それは耳寄りな話だ」
と言って、駒井甚三郎はわれながらはずむほどに身を乗出したというのは、今もいままで思いなやんでいた当座の問題――かけがえのない船の苦労人《くろうと》、思案の果てが、いつもあの不埒《ふらち》千万なマドロスの上に落ちて来るのが苦々しい限り。ところがこのマドロスに上越すところの海の苦労人《くろうと》が、現在自分の身近くにいる! という報告を、別人ならぬお松が聞かせてくれたのだから、駒井が夢かと驚喜の色を浮ばせるのも無理はありません。
「そういう人がいるなら、早速会ってみたい、どこにいます」
「お船の船頭部屋に泊り込んで、毎日、修繕仕事を手伝わせていただいております」
「今晩もいますか」
「はい、宵のうちは乳母《ばあや》さんのお部屋へ、皆さんとよくお話しに出かけます」
「では、直ぐにここへ呼んでもらえまいか」
「今晩お会い下さいますか」
「早い方がよい、今すぐにここへ呼んで来て下さい、ここでひとつ、会いましょう」
「では行ってまいります」
お松があたふたと出て行ったその後で、駒井甚三郎は、なんだか胸が躍るように思いました。が、また思い返してみると、それはあんまりお誂向《あつらえむ》き過ぎる、そういう思いがけない人間が、この際、ひょっこりとここへ現われるなどは夢のようなものだ。もとより本当のマドロス修業をした人間ではない、海へ出た魚師かなにかが災難で漂流して、世界中を吹き廻されて来たというものだろうが、なんにしても遠洋航海の実地経験さえ持ち合わせている人ならば充分だ、早くその人を見てみたい、そうしたならば明日からでもマドロスの補欠として雇い、大工から引抜いて、天晴《あっぱ》れ一方の仕事を任せてみたい。
こう気構えしていると、やがてお松が手を曳《ひ》いて、当人をここへ連れて来ました。
三十
待ち焦《こが》るるほどの目の前へ、当人を連れて来られて見ると、再び駒井甚三郎が、一時は拍子抜けのするほど呆気《あっけ》に取られてしまい、
「ははア、君はいったい幾つなのですか」
と、とりあえず年を尋ねることが先になってしまったことほど、この当人は年寄中のヨボヨボでありました。遠洋航海ということから、マドロスの海風に吹き鍛えられた皮
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