《そむ》いて去ったのだから、こちらに責任が無いと言えば言うものの、自分の周囲に人を引きつける徳がなく、人を容れるの量がないのかということを想像してみると、駒井といえども、いとど心淋しさを催さずにはおられないのでしょう。
古来英雄というものには、みな人を引きつける一つの力を備えている。憎まれながらも、恐れられながらも、人がそれについて行く。人がそれから離れられないという力があるものだ。然《しか》るに自分は――英雄であるとはうぬぼれていないが、自分に附く人よりも、自分から離れる人の方が多く、自分のよしと信ずる理想が、人から喜ばれるよりも、人から斥《しりぞ》けられるものばかりが多いように思われてならない。第一、自分の妻が、もう最初から自分を離れている。お君が離れた。従ってあの米友という礼儀はわきまえないが、心実の確かな小男も、自分を離れたというよりは、むしろ怨《うら》んで去った。神尾主膳の陥穽《かんせい》にかかって、自分は半生を葬られてしまったようだが、実はやっぱり自分は、その地位を保つだけの徳がなく、職を辷《すべ》るだけの欠陥があったせいだと見られないこともない――駒井はこんなことを考えながら、やがてひとり船室を立ち出で、甲板の上を静かに歩み出でました。
外へ出て見ると、月ノ浦の夜に月はありませんでしたけれども、至って静かなものです。遠く松島湾の方のいさり火を眺めて、駒井甚三郎は満面に触るる夜気を快しとしました。
船の修繕と、未完成の部分の工事、この地で大工に心あるものを雇いは雇ったが、どうも思うようにこちらの壺を呑込んでくれなくて困る。人手に不足はなく、みんなよく働くけれども、本来、こういう船の工事を扱う手心が出来ていないのだから仕方がない。明日はまたひとつ鍛冶屋を探し求めなければならない。機関部の工事を補足をするために、この辺から鍛冶屋を求め出して来なければならない。それはあるだろう、本当の鍛冶屋は探せば出てくるに相違ないが、それを生《なま》では使えない、一応|陶冶《とうや》教育を加えてから、傍についていて指導して使わなければならない。その手数がどうも容易のものではないが、それは致し方ない、と駒井が、そのことを思い及ぼすと、どうもあの不所存者のことが気になる。
「あのマドロスの奴がいれば、こういう時には全く役に立つ」
やっぱり未練のような思いが残るらしい。
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