弟いずれが本家だかわからないくらいになっているのであります。
今や北上川の渡頭の辺《ほとり》に立って田山白雲が歌い出したのは(むしろ唸《うな》り出したのは)――
[#ここから1字下げ]
「三代の栄耀《えいえう》一睡の中《うち》にして、大門《だいもん》の跡は一里こなたに有り、秀衡《ひでひら》が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。先づ高館《たかだち》にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。衣川《ころもがは》は和泉《いづみ》ヶ城《じやう》をめぐりて、高館の下にて大河に落入る。康衡《やすひら》が旧跡は衣ヶ関を隔てて、南部口をさし堅め夷《えびす》をふせぐと見えたり。偖《さて》も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢《くさむら》となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て時のうつるまで泪《なみだ》を落し侍《はべ》りぬ。
夏草やつはものどもが夢の跡」
[#ここで字下げ終わり]
これは、やはりこの土地の形勢によってうつされた文章でないことはわかり切っておりますが、白雲はどうしても、これをこの場で歌ってみたい気持になったのは、「まづ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。衣川は和泉ヶ城をめぐりて、高館の下にて大河に落入る」という気象がここでピタリと来たから、それでこの文章をここで高らかに吟じてみたくなったのでしょう。それは昨晩の屏風に、無性に「ゆく春や鳥啼き魚の目はなみだ」と書いてみたかった心持、時は、秋であるのに、往《ゆ》く春の心が抑えきれなかったのと、同じ衝動でありましょう。
そうしてまた、北上川なるものの相がいかにも汪蒙《おうもう》として、古調を帯びたところに、白雲の心胸が打たれないわけにはゆかなかったのでしょう。
こちらへ来る間にも、荒川だとか、大利根だとか、那珂《なか》、阿武隈《あぶくま》、近くは名取川に至るまで、大小いくつかの川を渡っては来ているけれども、この北上川へ来て見ると全く違った感じ――どうやら奥州の夷《えびす》――更に遠くは日高見の国をまで眼前に思い浮べ来ったものと見えます。
キタカミの文字がヒタカミの訛《なまり》であるという考証を仙台で聞いた。してみると、人文の未《いま》だ剖判《ほうはん》せざる上古、武内宿禰《たけのうちのすくね》や、日本武尊《やまとたけるのみこと》の足跡がある。キタカミとヒタカミは果して相通じているか知れないが
前へ
次へ
全114ページ中88ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング