またまっしぐらに遠くの岸の方をのぞんで泳ぐこと、泳ぐこと――この状態がついに、船中の田山白雲にも解しきれなかったくらいですから、玉蕉女史にも、附添の老女にも、船夫風情にも合点《がてん》のゆきようはずはありません。
ひとり、清澄の茂太郎が、それから船一杯にうろたえ廻りました。
「先生――大変です、ムクが眼の色を変えて飛び出しました、あの犬が眼の色を変えて飛び出すからには、よほどの大変があると見なければなりません。ごらんなさい、これほどわたしがうろたえているのを顧みもせず、真一文字に海を泳ぎきって行くのをごらんなさい、岸へ向って行くから、変事はきっと岸の方にあるのです。ですけれども、岸は遠いです、ごらんなさい、町の火影《ほかげ》が星のように小さく、あんなに微かに見えるではありませんか。皆さん、わたしたちは興に乗じて少し来過ぎました、岸が遠過ぎます、いかにムクだって、翼があるわけではありませんから、この海を泳ぎきって、あの岸まで行く間には時間がかかります――ああ、わたしたちは、いい気になって、月に浮かれ、景色にみとれ、少し遠くまで来過ぎてしまいました」
茂太郎は、こう言って船べりに地団駄を踏むのです。
重ね重ね、呆《あき》れ果てている白雲も、玉蕉女史も、事の仔細は紛糾交錯《ふんきゅうこうさく》して何だかわからないが、そう言われてみると、自分たちは、たしかに岸を離れること遠きに過ぎたという感じだけは取戻しました。
二十一
ことがここに至っては、いかに逸興の詩人騒客《しじんそうかく》といえども、再び以前の興を取戻すことは不可能でしょう。
すべて、事は盛満を忌《い》むもので、今宵の風流は、最初から興が酣《たけな》わに過ぎました。こうなった以上、どのみち、舟を戻して興を新たにするよりほかはないでしょう――言わず語らず舳艫《じくろ》はしめやかにめぐらされました。
一方――どこをどうして泳ぎ着いたのか、ムク犬は完全に五大堂前の松島の陸の岸の上に身ぶるいして立ち上ると、そのまま息をもつかず、めざして走るところは、まさしく瑞巌寺《ずいがんじ》の境内《けいだい》であるらしい。
果して瑞巌寺の門内、法身窟の前の真暗闇《まっくらやみ》の中に、まっしぐらに走り入ると、その闇の中の行手から息せききって走って来る一人の人の姿と、ムクとが、バッタリと出会いました。
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