東道の主《あるじ》なる閨秀詩人が、今日は薄化粧して嫣然《えんぜん》として待ちかねている。物慣れた老女が一人かしずいて席を周旋し、老船頭が一人船をあずかって迫らない形をしている。
「田山先生、ようこそ」
「いや、どうも……恐縮です」
白雲がいたく恐縮をしてしまいました。ことには、いかなれば旅絵師のやつがれ風情に、今日はこうして扶桑《ふそう》第一といわれる風景のところに、絶世の美人で、そうして一代の詩人に迎えられて、水入らずにお月見――美酒あり、佳肴《かこう》あり、毛氈《もうせん》あり、文台がある。山陽、東坡のやからすら企て及ばざる風流韻事の果報なり、と心を躍《おど》らせずにはおられません。
「時に、玉蕉先生、一つお願いがあるのですが」
「改まって、何でございます」
「ここに一人の少年と、一頭のムク犬がおります、拙者の従者なのですが、画舫《がほう》の片隅へ召しつれて差支えございますまいか」
「ええええ、差支えございませんとも」
「では、茂――ムク――」
白雲は茂太郎とムクとをこの船に引きずり込み、やがて、風流|瀟洒《しょうしゃ》たるこの月見船は、松島湾の波の上を音もなく辷《すべ》り出しました。
果して、興は船の進むと共に進みました。美酒佳肴の用意も申すまでもなく、丹青翰墨《たんせいかんぼく》の具まで備わらずということはありません。
興に乗じて、白雲は筆をとって直ちに眼前の景を描きました。
「これへ一筆――」
玉蕉女史に向って賛を求めると、女史も辞することなく達筆をふるいました。
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絶奇造化思紛々(絶奇なり造化、思ひ紛々)
位置如棋島嶼分(位置は棋の如く島嶼分る)
最是風光難画処(最もこれ風光の画き難き処)
落霞紅抹万松裙(落霞紅に抹《は》く万松の裙《もすそ》)
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それから白雲が随って画けば、玉蕉が随って賛をする――二人が詩興画趣のうちに全く陶酔して行くのはやむを得ないことですが、
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オイセとチョウセ
オイセとチョウセ
オイセとチョウセ
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清澄の茂太郎が、けたたましい声を上げて突如として舟べりをゆすりはじめたのは、風景の美に打たれての感興か、それとも、美人と画家とが、自分たちだけ詩興画趣に陶酔していて、我々に頓着しないのに、いささかの嫉妬と退屈とを感じ出したのか、とに
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