らしました。
 お松は、それを、この場合、重大なる心抜かりであったように思われないではありません。この「失敗《しま》った!」の一語が、仏兵助という桶屋さんの口から出たならば、七兵衛おじさんの方にまだ脈があるのですが、万一この「失敗った!」が、七兵衛おじさんの口から出たものならばどうしよう。お松はその時、胸の上へガンと金槌《かなづち》をぶっつけられたような気持がして、もう、意地も、我慢も、見栄も、分別もなく、隠れ場から走り出してしまいました。
 そうして、格闘の現場へ飛び込んで見なければならない気持に追われて、丸くなって飛び出したその出端《でばな》を、ふわりと抑えるものがありました。
「おや?」
 それを払い除けようとしてみると、そのものが、いよいよ和《やわ》らかく、自分の面《かお》をすっぽりと包んでしまいました。
 それは、誰か大きな人か、出家の身に相違ありません。その人が、お松のかけ出した出端を、その大きな法衣《ころも》の袖で、包んで抑えてしまったものだということが、直ちに分りましたけれども、その坊さんが誰であるかはわかりません。
 ただ、こうして自分を抑えてくれたことに、充分の好意をもってしてくれる証拠には、その法衣ざわりが全く和らかで、最初から窒息させるつもりもなく、抑留の気分もなかったことでわかります。それは獲物《えもの》を捕えるために張った蜘蛛《くも》の巣でないことはわかっているが、さりとて、お松の力でこれを払い除けて走ることは、その法衣の袖が和らかに出でてあるほどにかえって、困難なことでありました。そこで、お松としては、あのすさまじい現場へ走り込むことを遮《さえぎ》られたのみか、その現場を見届けることをさえ抑えられてしまった形で、どうすることもできないで、全くその瞬間だけは、蜘蛛の巣にかかった小蝶と同じような運命に置かれました。

         二十

 これより先、田山白雲が、今日は少し早目に宿へ帰ってしまったのは、不意にやって来た清澄の茂太郎の足もとがあぶなっかしいので、それが心配になるのと、もう一つはかねて約束が一つありました。
 仙台の閨秀詩人《けいしゅうしじん》、高橋玉蕉女史の招待で、今晩あたり松島の月を見ようとの誘いを受けていたものですから、その心がかりもあって帰って見ると、果して玉蕉女史から使がありました。
 少し時刻は早いが、観瀾亭《
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