、おそらく、勢いこんだ気合の掛声だけだったのでしょう。
 正面衝突から両箇が組んずほぐれつの大格闘になったのが、お松の眼にありありと分ります。それから、その一人が気のいい桶屋さんであるだろうこともいよいよ推想されますが、ぶっつかって来た独楽の何者であるかはめまぐるしくってわからない。これが居ても立ってもいられないほどにお松の気を揉《も》ませるのです。
 しかし、この両箇が臥竜梅で組んずほぐれつの大格闘を演じている間も、そう長いことではありませんでした。何となれば、追われた独楽の方は身一つであるけれども、それを追いかけたものには幾箇の捕手があり、それが、桶から出て正面衝突に組みついた桶屋さんに加勢する。
「ち、ち、ちくしょう、途方もねえ奴だ、骨を折らせやがる、貴様はどこの何者で、誰の縄張りだ――おれは仙台の仏兵助だぞ」
「…………」
 組み打ちながら、仙台の仏兵助と名乗ったのは、天水桶の伏兵をつとめていた昼の桶屋さん――の声に相違ないと、お松の耳には響きましたけれど――敵に名乗りをかけられて相手の独楽がいっこういらえがありません。
 しかしこの独楽が、まだ充分に抑えきられていないことは、多勢を相手に必死の抵抗が乱闘となり行くことでわかります。
 お松は全く気が気でありません。
 せめて、この相手の一人が、何とか言葉を出してくれればいいと思いました。
 何とか一言いってくれれば、この気がいくらか休まると思いました。いいえ、そんなどころではない、追われて来て、ここで組み止められている人が、七兵衛おじさんでなければ果して誰でしょう。
 違いない、違いない、七兵衛おじさんがこうして追い詰められて、いま、つかまろうとしているところだ。
 ああ、どうしよう。
 自分の力では――出ていいか、出て悪いか。出たところでどうなるものかと言ったって、みすみすああして、捕まってしまうものを……
「うぬ、てごわい奴!」
「あっ!」
「失敗《しま》った!」
 この失敗った! という一語が、どちらの口から出たのか。それだけが、わくわくしていたお松の耳にそれてしまいました。いや、たしかにその一語を聞き止めたには相違ないけれども――それがいずれから出たのか、仏兵助と名乗りをあげた桶屋さんの口から出たのか、追いかけられて組みつかれた七兵衛おじさん――仮りにその人だとして――の口から出たのか、お松が聞き漏
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