露に泣いたこともある。定まらぬ旅路の中の旅路の身、昨夜は大海の上で、今宵はこうして松島の月をながめているけれども、明日の夜はいずれの里に、いかなる月をながめるか計られない。
それはなにも自分に限ったことはない、誰にしても、本当にこれでよいと落着くことのできないのが人間の一生で、落着くところはすなわち墓――というほどの、ひとかどのさとりの下に愚痴をこぼさず、感傷に落ちないお松でしたけれども、こうして静かに海岸の月夜を歩かせられていると、泣かないわけにはゆきません。月に心を傷められると、身に思い当る人という人の運命を思いめぐらして、その人たちのためにも泣かざるを得ない気持に迫られました。
宇津木さんも苦労をしているが、机竜之助というやつ、憎いも憎い悪人だが、それでもどうかすると、何とはなしに、かわいそうに思われてならないこともある。七兵衛おじさんの親切は再生の親も同じとは思うが、それにしてもあのおじさんも、もう少し落着けないものかしら――足の速いことが仇《あだ》になって、一つ所にじっとしていられないために、よけいな苦労を求めて廻る、あの持って生れた速足さえ無ければ、ほんとに暢気《のんき》なお百姓さんで苦労なく一生を暮して行かれようものを……駒井の殿様だってそうです、あの御器量と、学問さえ無ければ、立派なお旗本として、わたしたちなんぞはお傍へも寄れないところにいらっしゃれるはずなのを……
人間は、能が無いために苦しまないで、能があるために苦しむ、人に優れたものを持つが故《ゆえ》に、かえって人並よりも苦しまなければならない。自分なんぞは何も能は無いくせに、苦しい運命に置かれることだけは人並以上な心持もするが、それは自分だけの勝手の見方で、能がないからこそ、このくらいの苦労で済む――もし何かすぐれたものがあれば、もっと苦しい思いをさせられなければならないのかも知れない。そうです、そうです、あのお君さんを見てもそうです。あんな美しい容姿に生れなければ、あんなかわいそうな一生を終らなくてもよかったでしょう、わたしも不幸だけれども、あの人も不幸でした。たしかにあの人の不幸な一生は、わたしの不幸な今までよりも増している。かわいそうな人でした、お君様は……
米友さんはどうしているんだろう。あの人は、ああいう人だから、怒っているのか、悲しんでいるのかわからないが、自分の運命が恵ま
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