かしているわけではないのです。愛想をつかしていないのみならず、この熊めがふしだらであればあるほど、そこに幾分|憐憫《れんびん》の情を加えて、
「なあに、こいつだってなんしろまだ子供のことだから、丹精して、うまく仕込んで行きさえすりゃあ、立派なムクのあと嗣《つ》ぎにならねえとも限らねえわさ、今、朝顔を作ればといって、丹精一つのものだあな」
と呟《つぶや》いています。今ここで米友が朝顔を引合いに出したのはどういう縁故かよくわかりませんが、どこまでも被教育者そのものに責任を置かず、あらゆるものに向って、教育だの、陶冶《とうや》だのということの可能性を信じているのであります。従って、しつけの悪いのは、躾《しつ》けられる方の咎《とが》ではなくて、躾ける方の力の如何《いかん》にあるということを信じているらしいから、そこでさしも短気な米友が、頭の上から尻の世話まで焼いて、その親切がてんで受けつけられないに拘らず、未《いま》だ曾《かつ》てこの動物に向って絶望を投げつけたことのないのでわかります。
 かかる親切と信念の下に、米友ほどの豪傑に三助の役を勤めさせながら、それを恩にも威にも着ないこの動物は、
「兄い、もういいかげんでいいやな、そんなにめかしたって誰もかまっちゃくれねえんだ、それよりか、おいらを少しの間でもいいから野放しにしてくんな、あんなに広い原っぱがあるじゃねえか、あれ見な、あの森には真紅《まっか》な柿の実がなっているよ、栗も笑《え》んでらあな、ちっとばかり放して遊ばせてくんなよ」
 こういうような我儘《わがまま》で、米友の親切を振りもぎりたがって暴れているのみであります。
 けれども、米友は、親としても、師としても、左様な駄々っ児ぶりは許すべき限りでないと、あがく熊を抑えつけては、ごしごしと五体を洗濯してやっています。

         六

 かくして宇治山田の米友は、熊を洗うことに打ちこんで総てを忘れてはいるが、実はそれと相距《あいさ》ること遠からざるところに、熊よりも一層忘れてはならない相手のあるのを忘れていました。
 枇杷島橋《びわじまばし》の上で、ファッショイ連を相手に、さしも武勇をふるった道庵先生が、ここは尾州清洲の古城址のあたりに来ると、打って変って全く別人のように、そこらあたりをさまようて、古《いにし》えを懐い、今を考えて、徘徊顧望、去りやらぬ風情に、これも自身我を忘れているのでありました。
 道庵先生の真骨頂は、平民に同情することと共に、英雄に憧るるところにある。さればにや、日頃は十八文を標榜して、天子呼び来《きた》れども、船に上らず、なんてたわごとを言っているに拘らず、日本の英雄の総本山たる尾張の地に来て見れば、英雄の去りにし跡のあまりに荒涼たるに涙を流し、なけなしの旅費をはたいて英雄祭の施主となって、ために官辺の誤解を蒙ることをさえ辞さぬ勇気があるのであります。
 さほどの義心侠血に燃ゆるわが道庵先生が、名古屋よりはいっそう懐古的であり、ある意味に於ては、天才信長の真の発祥地であるところのこの尾州清洲の地に来て、城春だか秋だか知らないが、葉の青黄いろくなっているのを見て、涙おさえ難くなるのも無理はありません。
 くどいようだが、銀杏《ぎんなん》城外の中村では、英雄豊太閤の臍《ほぞ》の緒《お》のために万斛《ばんこく》の熱涙を捧げた先生が、今その豊太閤の生みの親であり、日本の武将、政治家の中の最も天才であり、同時に最大革命家であるところの織田信長の昔を懐うて、泣かないはずはありません。
 そこで、道庵先生は今し(米友及び熊の子と程遠からぬ地点)清洲の古城址の内外を、やたらむやみに歩いております。歩きながらブツブツとしきりに独言《ひとりごと》を言っているのであります。
 見ようによっては、それはまさしく狂人の沙汰です。ついに、土地の甲乙丙丁はいつしか集まり集まって道庵先生の挙動に眼をとめつつ指差し合って、しきりに私語《ささや》くのを見る、
「どうもあの旅の人は少し変だ――あんな原っぱの中を独言を言いながら、さいぜんから行きつ戻りつして、時々はっはと言ってみたり、石を叩いたり、木を撫でたり、おめき叫んだりしている――様子が変だ、キ印ではねえか」
 物事は、当人が凝《こ》れば凝るほど、信ずれば信ずるほど、凡俗が見て以て狂となし、愚となすのは争われ難いもので、この場合の道庵先生としては、平常より一層の真面目と熱心とを以て、懐古と考証とに耽《ふけ》っているので、世上の紛々たる毀誉《きよ》の如きは、あえて最初から慈姑《くわい》の頭の上には置いていないのです。
 すなわち先生がブツブツとひとり言を言っているのは、織田信長勃興の地であり、信長が光秀に殺されてから前田玄以法師が三法師を抱いてこれに居り、信雄が秀吉と戦ったのもこの城により、後、秀次の城邑《じょうゆう》となり――関ヶ原の時にはしかじか、後、福島正則が封ぜられ、家康の第四子忠吉より義直に至って――この城を名古屋に移すまでの治乱興廃を考え、従って五条川がここを流れ、天守台はあの辺でなければならぬ、斯波《しば》氏のいたのをこの辺とすれば御薗は当然あれであり、植木屋敷があの辺とすれば山吹御所はこの辺でなければならぬ、ここに大手があって、あちらに廓《くるわ》がある。翻って城下の形勢を観察すると、ここがやっぱり昔の往還になっていわゆる須賀口というやつは、今、田圃《たんぼ》になっている。
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酒は酒屋に
よい茶は茶屋に
女郎は清洲の須賀口に
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 そうだ、それから考えてみると、出雲の阿国《おくに》がしゃなりしゃなりと静かに乗込んで、戦国大名に涎《よだれ》を流させたのはこのところだ。
 須賀口から熱田の方へ行く道に「義元塚」というのがあるから、ついでがあらば弔《とむら》ってやって下さいとお茶坊主が言った――義元といえば哀れなものさ、小冠者信長に名を成させたも彼が油断の故にこそ、信長が無かりさえすれば、武田よりも、上杉よりも、毛利よりも、誰よりも先に旗を都に押立てたものは彼だろう。家柄だって彼等よりずっと上だからな。そうなると信長はもとより、勝家も、秀吉も、頭を上げるこたあできねえ、人間万事、夢のようなものさ。そういえばそれ、この城から桶狭間《おけはざま》へ向けて進発する時の、小冠者信長の当時の心境を思わなけりゃあならねえ。
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人間五十年、化転《けてん》の内を較《くら》ぶれば、夢幻《ゆめまぼろし》の如くなり
ひとたび生《しょう》をうけ、滅せぬもののあるべきか
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 世間並みのやり手は、芝居がかりで世間を欺くが、信長ときてはお能がかりだ。
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人間五十年、化転の内を較ぶれば……
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 道庵先生はこの時、異様な声を張り上げて、繰返し繰返しこの文句を唸《うな》り出しましたので、さてこそと集まるほどのものが、いよいよ眼と眼を見合わせました。
 この異様なる音律を、繰返し繰返ししているうちに、道庵先生の自己感激が著《いちじる》しく内攻して来たと見ると、音声だけでなくて、一種異様なる身体《からだ》の律動をはじめてしまいました。
 しかし、それとても、無学文盲なるこの辺の児童走卒にこそ、道庵先生の為すところのすべてが異様にも異常にも感ぜられるのだが、実際はお得意の喜多流(?)によって、謡につれて徐《おもむ》ろに、仕舞と称する高尚なる身体の旋律運動を試みているだけのものなのです。
 この先生が、馬鹿噺子《ばかばやし》にかけては古今きっての自称大家であることは、知るものは誰も知っているところだが、それよりも一段と高尚なるお能と仕舞とに就いても、これほどの造詣があるということを買ってくれる人のいないのが浅ましいことではないか。
 しかし、御当人は、買ってくれる人があろうがあるまいが、御当人の自己感激は、こうしていよいよ深み行くばかりで、もはや眼中に清洲の城址も無く、あたり近所の児童走卒も無く、古英雄信長もなく、今川義元もなく、ただ人生五十年の夢幻と、他生化転の宇宙実在とがあるばかり。自己感激はついに悠然として自己陶酔にまで進み入りました。
 しかしながら、いつもの型の通りに、この放恣浩蕩《ほうしこうとう》なる自己陶酔から、わが道庵先生の身辺と心境とを微塵に打砕くものの出現は、運命と言おうか、定業《じょうごう》と言おうか、是非なき必至の因縁でありました。

         七

 この場面へ、東の方より、つまり先刻道庵先生がファッショイ共を相手に一代の武勇をふるった枇杷島橋の方面からです、一梃の駕籠《かご》を肩に、まっしぐらにはせつけて来た二人の仁があります。
 これは雲助です。
 道中をこうして駕籠をかついで走る者に、雲助以外のものがあろうはずはありますまい。
 世間では往々、雲助と折助とを混同する者がある。混同しないまでも、ほぼ同様の性質を持っていると見るものがあるが、それは大きなあやまりで、雲助にとっては大きな冤罪《えんざい》であるが、その事は後に談ずることとし、とにかく、この場に於ける二人の逞《たくま》しい雲助は、この地点までまっしぐらに走って来たが、ただ見る清洲古城址の草の青黄色いところに、一人の狂人らしいのが児童走卒に囲まれながら、しきりに身ぶり声色を試みている体《てい》たらくを発見するや、後棒と先棒との見合わせる目から火花が散って、
「合点《がってん》だ」
 駕籠をそこにおっぽり出して、向う鉢巻勇ましく、やにわに走りかかって来たのは、意外にも道庵先生の身辺でありました。
 右の二人の逞しい、いけ図々しい雲助らは、道庵めがけ近寄ると見れば、無茶にも、惨酷にも、あっと言う猶予も与えず道庵に飛びかかって、さながらパッチ網にかかった雲雀《ひばり》を抑えるが如く、左右から道庵を押し転がし、取って抑えて、有無《うむ》をも言わせません。
「あ、こいつは、たまらねえ」
 そうして道庵がうんが[#「うんが」に傍点]の声を揚げ得た時は、もう、軽々と引きさらわれて、道に置き放した商売道具の四枚肩中へ無理に押込まれたその途端のことで、かくの如く、有無をも言わさず道庵を取って抑えて駕籠の中へ押込んだ雲助は、群がる見物の驚き騒ぐを尻目にかけて、そのまま駕籠を肩にして、
「エッサッサ、エッサッサ」
 飛ぶが如くに西の方――つまり木曾川から岐阜、大垣の方面、道庵主従が目指す旅路の方面と同じではありますが――へ、雲助霞助に飛んで行ってしまうのです。
 これは実に、誰にも分らない雲助の振舞であり、今日まで、脱線と面食《めんくら》いにかけては、かなり腕にも頭にも覚えのあり過ぎる道庵自身すらが、全く解釈のできない、非常突発の行為でありました。
 それは、つもってみても分らず、苟《いやしく》もファッショイ、三ぴんの余党でない限り、道庵に対して、この辺にそう魂胆や遺恨を持っている者はないはず――
 また、道庵先生がもう少し若くて、別嬪《べっぴん》ででもあるならば格別――そうでなくても、もうすこし福々しいお爺さんででもあるならば、さらわれる方も覚えがあり、さらう方もさらい甲斐があろうものを、大江戸の真中へ抛《ほう》り出して置いても拾い手のなかったじじむさい親爺が、尾張の清洲へ来てさらわれるようなことになろうとは信ぜられぬことでした。
 だが、世間には、好んでお医者を担ぎたがる悪趣味者がある。
 京都のある方面の、仏法僧の啼《な》く山奥へ医者を担ぎ込んで、私闘の創《きず》を縫わせた悪徒もある。
 或る好奇《ものずき》なお大名が、相馬の古御所もどきの趣向をして、医者を誘拐して来て弄《もてあそ》んだというようなこともないではない。そのいずれにしても、道庵の蒙《こうむ》る迷惑と困却とは、容易なものではないことは分りきっています。そこで、走り行く雲助霞助の中にいて、駕籠越しに有らん限りの号泣と、絶叫とをはじめました、
「友様――後生《ごしょう》だから助けてくれ!」

         八

 熊を洗濯
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