し、芸妓の福松がなにくわぬ面《かお》で格子をガラリとあけ、
「まあ、数馬様でいらっしゃいましたか、こんなに遅く、どうあそばしたのでございます」
「実は……」
兵馬が閾《しきい》を跨《また》がないで何をか言わんとするのを、芸妓は、
「まあまあよろしいじゃございませんか、わたしのところだって鬼ばっかりはおりません、少しお上りあそばせよ」
「いや、ここでよろしい、ちょっと耳を貸してもらいたいのだ」
「まあ、そうおっしゃらずに、少し……」
「いや、ここがよろしい、ちょっと聞いてもらいたいことがある」
何か内証話があるらしいそぶり。福松は引寄せられて、
「何でございますか」
「あの……」
兵馬も面を突き出して福松の耳に口をつけようとすると、紛《ぷん》として白粉の匂いが鼻を打ちました。
「あ、よろしうございますとも、それはよう心得ておりますから、そういうことがあり次第、何を差置いてもあなた様にお知らせを致します」
兵馬の囁《ささや》きを、芸妓の福松は委細諒承してしまっての返事がこれです。
「では、頼みます」
「まあ、よろしうございます、もうこんなに遅いのですから、お泊りあそばしていらっしゃいましな。あら、わたしのところじゃおいや……」
「そうしてはおられません」
兵馬はこう言って、御神燈の下を辞してしまいました。
うつらうつらと、宮川の岸を歩きつつある兵馬の心頭に残っているのが、あの脂粉《しふん》の匂いです。目先にちらついているのは、御神燈の光へ横面《よこがお》を突き出して、兵馬の方へ耳を寄せたあの頬っぺたの肉づきと、それから島田の乱れたのです。
兵馬は、なんだかうなされるような気になりました。吉原で魂を躍動させたような血が、どうやら巡り来って自分を圧えつけるような気持がしただけではありません、「泊っておいでなさいましな、あら、わたしのところじゃおいや……」と言ったのが、なんだか耳の底に残っていてならぬ。
泊って行けと言われたなら、泊って来たらよかったじゃないか――そんなにも兵馬は考えました。
だが、宿所にはお雪ちゃんが待っている。待っていないまでも、用向以外に人の家へ寝泊りして来るいわれはない。泊って行けと言ったのも[#「言ったのも」は底本では「行ったのも」]、「あら、わたしのところじゃ、おいやなの……」と言ったのも、先方の単純なお世辞で、こちらがそれに甘んじて、のこのこと芸妓家へ泊り込んだりなどしたら大笑いだ。今晩福松を訪ねたのは彼女を利用せんがためであって、その好意に甘えんがためではない。
兵馬は、この間の代官屋敷の兇行者を、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵だと睨《にら》んでいないまでも、彼が有力な芝居をすることを前後の事情から推察している。だが、がんりき[#「がんりき」に傍点]をがんりき[#「がんりき」に傍点]として目星をつけたのではない。代官屋敷に宿直をしている時、自分とお蘭さんとを間違えて口説《くど》きに来た悪党めいた奴があった。その時、取っつかまえてやろうとしたが、存外すばやい奴でとり逃したが、あいつがこのたびの事件に有力な筋を引いているように思われてならない。代官の首を斬るというほどの役者ではないが、お蘭さんをかどわかすぐらいのことをやり兼ねない。時を同じうしての出来事だから、代官を斬ったのと、お蘭を奪ったのとが同一人の仕事のように見えるけれども、どうも別々の事件のように思われてならない。
そうして、代官を斬った奴はもうとうに国境を出て行ってしまっているかも知れないが、お蘭さんをかどわかした奴は、ことによるとまだ町の内外に隠れて、ほとぼりの冷めるのを待っているかも知れない。
今晩、その辺の当りをつけるために、わざわざ福松の御神燈の下に立ったのは、商売柄こういう女を利用すれば、何かきっかけが得られないものでもあるまいとの用意でした。
そこで、今、兵馬はお雪ちゃんと宿所を共にしているところの相応院の坂を上りながらふり返ると、まさに草木も眠りに落ちている高山の天地――宮川筋にまばゆき二三点の火影《ほかげ》のみがいやになまめかしい。
「泊っていらっしゃいな、あら、わたしのところじゃおいやなの……」と言った声が、油地獄の中の人のように兵馬の耳へ事新しく囁《ささや》いて、甘ったるい圧迫がまだ続いている。泊れと言われたら、泊って来たらいいじゃないか――ばかな……
というようなうつらうつらした気持で後ろの夜景を顧みながら、足はすたすたと相応院の方へのぼりつめている。
「いま帰りました、おそくなりました」
軽くお雪ちゃんに挨拶したつもりなのだが、返事がありません。返事が無いのは眠っている証拠だから安眠を妨げないがよろしいと、ひそかに井戸端で足を洗って、座敷へ通って見たが、いつもある有明《ありあけ》の燈火が無く、兵馬が手さぐりに近づく物音にも、お雪ちゃんはいっこう驚かず、やっと火打をさぐりあて、カチカチときっ[#「きっ」に傍点]た物音にも、パッと明るくした明りにも、お雪ちゃんはいっこう醒めず、その行燈《あんどん》で兵馬が一応室内をあらためて見た時、いずれの部屋にもお雪ちゃんの姿を見出すことができません。それでも室内は出て行った時のまま整然として、誰も踏み込んだ形勢はない、お雪ちゃんのよそゆきであるべき衣裳すらが、そっくりと衣桁《いこう》に掛けたままです。
三十
お絹の世話で、砂金掘りの忠作は、ついに異人館のボーイとして住込むことになりました。
ここで、親しく異人の生活の実際に触れてみると、忠作としては、今までの想像に幾倍する経験と知識とにあがきを感ずるほどです。
敏慧なこの少年は、ここで一から十までも学び尽さねばおかないという気になりました。
まず、異人館の間取間取を覚え、その器具調度の名を覚え、かの地から持ち込まれた商品と器械とを逐一《ちくいち》に見学して、頭と手帳に留めてしまいました。
その間に西洋人というものの気風をすっかり呑込まなければならないと考え、西洋人にも幾通りもあることを知り、そうして、日本人の大部分が、それを毛唐《けとう》という軽蔑語で一掃してしまうことの無知を今更のようにさとり、異人の気風を知るには、まず異人の国々を知り、その国々の歴史と成立ちをも知らなければならないということに気がつくと、その方面の学問を、多少に限らず頭に入れておかなければならないと知ったのはあたりまえです。
そういうふうに頭の働く少年にとっては、見るもの聞くものが、ことごとく新知識となって吸入されぬということはなく、忠作の得た結論は、どうしても、今の日本人よりは毛唐の方が遥かに進んでいる――日本人は獣類同様、或いはそれ以下に異人を見下しているけれども、事実、仕事をする上に於ての大仕掛と、金儲《かねもう》けの規模の世界的なることに於て、今の日本人は梯子《はしご》をかけても及ばないことを知り、異人が必ずしも日本の国をとりに来たというわけのものではなく、談笑の間に商売をしに来たのだということの方面が、忠作にはよくわかり、そうして将来の商売はどうしても、この異人を相手にしなければ大きくなれないということを、すっかり腹に入れてしまいました。
だが同時に、この少年を憂えしめたことは、商売をするといったところで、向うから買うべきものがうんとあるが、こちらから売るべきものは何がある、向うから買うべきものばかり多く、こちらから売るべきものがなければ、やがてこの国の富はすっかりあちらへ持って行かれてしまうではないか。
忠作は、今この貿易学の初歩について、つくづく考えさせられています。そうして今日の午後、自分の部屋で、コックさんから貰った一瓶のビールを味わいながら、忠作は、この酒は異人が上下となく好んで飲む酒だが、なんだか苦くって、大味で、日本人には向きそうもない、自分は利酒《ききざけ》ではないが、どうも将来とても日本人が、こんな苦くて大味な酒を、好んで飲むようになれるかなれないか考えものだと思い、それと同様に、異人がまた日本酒の醇なやつを、チビリチビリと飲むというような味が分って来そうにもない、どうも、日本の酒と、異人の酒とは、趣味のドダイが違うから、将来、あっちの酒をこっちへ持って来て売るようにはなれまいし、こっちの酒を向うへ盛んに売り出すようにはなれまい、そうすると、異人を目当ての酒の交易は、まあ当分、見込みはない、なんにしても今時、向うから持って来て、こっちへ売れるのは鉄砲だ、酒と違って、向うの鉄砲だってこっちの人間を殺せる、しかも殺し方が遥かに優れている、鉄砲を持って来て売り込むことは的を外れないが、それだって、日本の鉄砲は向うへ向けて売り物にならないから片交易だ。
忠作は、こんなことを考えながら、一杯一杯と好きでもないビールを呑んでいるところへ、突然|扉《ドア》を叩く者がある。
「どなた」
「忠ボーイさん、御在館でげすか、ほかならぬ金公でげすよ」
おっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]の金助が来たな、と忠作は直ちに知りました。
「金さんですか、お入りなさい」
難なく扉があいて身を現わしたのは、例によって野幇間《のだいこ》まがいのゾロリとしたおっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]の金公でゲス。
忠作は本来、こいつはあんまり好まない奴であるけれども、自分がここに住込むことになったに就いては、お絹を通しての最も有力なる橋渡しの一人でもあるし、これが持ち込む情報がまた、外国人に取入る好材料となったりすることもあるし、また或る意味に於ては、お絹を代表して、忠作と共通みたような儲《もう》け口の組合員ともなっているのだから、こいつの、なれなれしくやって来るのを、無下《むげ》に斥《しりぞ》けることもできないようになっている。
身を現わした金公は、例によって、いや味ったらしい表情たっぷりで、早くも卓子《テーブル》の上のビール瓶に眼をつけ、いま忠作が代り目をつぎ込んで、まだ泡の立っているのを見ると、図々しく、
「これは乙りきでげすな、黄金色《こがねいろ》なす洋酒のきっすいを、コップになみなみと独酌の、ひそかに隠し飲み、舶来のしんねこなんぞはよくありませんな、金公にも一つそれ、口塞ぎというやつを――なあに、そのお口よごしのお流れで結構でげす……」
こう言って咽喉《のど》から手を、そのコップのところへ出したものです。
「いや、コックさんから一瓶貰って、ちょっと仕事休みに飲んでみただけのものなんだよ。なんだか苦くて、大味で――わしゃ酒のみじゃないけれど、それでもあんまり感心しないと思って、ながめていたところだから、金さん、よければみんなおあがり」
と言って忠作は、瓶の栓を抜いて、注ぎ置きのコップの上へまた新たに注いでやると、シューッとたぎる泡が、コップの縁いっぱいにたぎり出しました。そうすると金公が大仰に両手をひろげて、
「あ、結構、有難い、何てまあ、この黄金色なす泡をたぎらす色合いの調子、ビールってやつでござんすな、ビール、ビルビルビルと一杯いただきやしょう」
物にならない駄洒落《だじゃれ》を飛ばしながら、金公はそのコップを取り上げてグッと一飲み、ゴボゴボとせき込みながら、
「なるほど――苦くて大味、というところは星でござんすな。但し、すーうと胸に滞《たま》らず、頭に上らず――毒にもならず、薬にもならずというところでげすから、泡盛《あわもり》よりは軽い意味に於て、将来、こりゃなかなか一般社会の飲物として流行いたしやしょう」
金公は、ホンの口当りにこんなことを言ったのだが、忠作はまたそれを先刻の胸算用に引きあてて聞きました。なるほど、金公の出鱈目《でたらめ》も聞きようによって算盤になる、苦くて、大味で、日本向きではないと、自分はさいぜん独断を下してみたが、金公のような、その道の奴に言わせると、胸に滞らず、頭に上らず、毒にもならず、薬にもならず、軽い意味に於て、将来一般に流行《はや》る平民的飲物としての素質を持っているとすれば、この酒も将来、日本人にとって、一種の
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