を添えるのは是非もないことです。
 今し、この夕方、垂井の宿いっぱいにひろがる流言蜚語そのものは、
「明日になると、武田耕雲斎が押しかけて来て、この宿を占領する」
ということでありました。
 中仙道と尾張路との岐れ路で、清冽《せいれつ》なる玉泉をもって名のある、平和な美濃路の一要駅が、今夕、この流言によって、多少とも憂鬱の色に閉されていることを米友が認めました。
 だが、こういった程度の流言は、歴史と言わないまでも、近代的の常識さえあれば、忽ちに雲散霧消すべきはずのものですけれど、そうもいかないところに、やはり時代の不安があるのです。
 武田耕雲斎が来る!
 なるほど、水戸の武田耕雲斎が、手兵を引具《ひきぐ》して、京地《けいち》を目指して乗込んで来るという事実と、風聞が、東山道沿道の藩民の心胆を寒からしめたことは昨日のようだけれども、もうその事が結着してから、少なくとも今年は三年目になっている。
 信濃路から侵入して来た耕雲斎の手兵が、大垣の兵に遮《さえぎ》られて北国へ転じ、ついに一族三百余人が刑場の露と消えたのは誰も知っているはずであるに拘らず、その幽霊が、かくもこの辺の人心を脅《おびやか》している。
 垂井の宿の入口でその流言を聞いたのが、宿の中程へ来ると、
「上方《かみがた》からは毛利|大膳大夫《だいぜんのたいふ》が来る!」
ということになっている。
 そうして、二つの結合点が、東から武田耕雲斎が来《きた》り、西から毛利大膳大夫が来て、明日にも関ヶ原で戦《いくさ》がはじまる、垂井の宿はその昔、天下分け目の関ヶ原の時にあわされたと同様な運命に落ちて焦土となる――というようなことになってしまっているようです。
 これもまた、常識を加えるまでもなく、おかしいことです。西から毛利がやって来て、武田耕雲斎を相手に天下取りを、名代の関ヶ原で行うということは、少し釣合いがとれない。
 今の毛利は、一族を以て日本全国を相手として戦い得るほどの力を備えているに拘らず、それが単なる武田耕雲斎を向うに廻さねばならぬというのは滑稽なことです。
 果して、進むにつれて風聞がまた拡大してきました。
 東から来るのは武田耕雲斎だけじゃない、水戸の中納言が、武田耕雲斎を先陣として乗込んで来るのだ。いや、引連れて来るのは武田耕雲斎だけではない、武州、相州、野州、房州、総州の諸大名が、みな残らず水戸様に率いられて来る!
 それからまた一方、西の方から来るのは単に長州の毛利だけではない、備州[#「備州」は底本では「尾州」]も来る、雲州も来る、因州も、芸州広島も来る。薩州の鹿児島までが、後詰として乗込んで来る。それが関ヶ原で再度の天下を争うのだ!
 そういうふうにまで変化してくると、いささか釣合いは取れてきたわけだが、それにしても、一方の毛利はよいとしても、東軍の総大将が水戸様はおかしいじゃないか。
 尾州とか、紀州とかいうことならば、長州征伐のむし返しが関ヶ原で行われるという理窟にはなるが、水戸徳川は、むしろ長州はじめ勤王党のお師匠格である。
 しかしながら流言蜚語《りゅうげんひご》は、認識や弁証の過不足については、なんらの責任を持たないのを常とする。
 こういう空気の中を米友が垂井の宿を抜けきる時分に、宿を覆うた不安の雲が、哄笑《こうしょう》の爆発で吹き飛ばされてしまったというのは、流言蜚語の正体の底がすっかり割れてしまったからです。
 それは、この街道筋の東西の雲助という雲助が、明日という日に関ヶ原で総寄合を行うということの訛伝《かでん》でありました。
 雲助には国持大名が多い――彼等は長州と呼び、武州と呼び、因州と呼び、野州、相州と呼ぶことを誰人の前でも憚《はばか》りとしてはいない。国持大名の二十や三十の頭を揃える分には、彼等の社会に於ては朝飯前の仕事である。
 つまり、明日の何時《なんどき》かに、斯様《かよう》の意味に於ての国持大名たちが、関ヶ原に勢揃いをして、しゃん、しゃん、しゃんとやろうという、その訛伝が、こんなことに伝えられたものと見える。
 そういう空気のうちに、米友は関ヶ原の駅へ乗込もうとして、その間の野上《のがみ》というのを通りかかったものです。
 そこにかなりの混乱を見ました。
 とある店前《みせさき》に篝《かがり》を焚いて、その前で多数の雲助が「馬方|蕎麦《そば》」の大盤振舞にありついているところです。
 女中たちが総出で給仕をしてやっているが、その奥の屋台に控えて、
「さあ、みんな、遠慮せずに食いな、うんと食いな、ここは桃配りといってな、家康公が桃を配ったところだ。ナニ、桃じゃ無《ね》え、家康公のは柿だと――どっちでもいいやな、今夜は蕎麦配りの山だ、うんと食いな。お代り、お代り、あちらの方でもお代りとおっしゃる、こちらの方でも……お
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