後ろなるは机竜之助でありました。
 米友は背中に大きな信玄袋を背負いこみ、その杖槍を後ろへ渡して、その一方を竜之助に持たせている。
 竜之助の姿を、いつもの暗夜行の時の姿とおもうと違います。絶えて久しい旅すがた――一文字の笠をいただいて、長い打裂羽織《ぶっさきばおり》を着、野袴をはいた姿は、その昔見た鈴鹿峠を越えた時の姿とよく似ています。歩みぶりといっても確かなもので、米友との間に、杖槍の連絡さえなければ、案内者兼従者を先立てて行く尋常の旅人としか見えません。
 道は黒血川と関の藤川とが合するところ、金吾中納言の松尾山を、はや後ろにして、勢州街道を左にし、養老の山々を行手にし、胆吹がようやく面を現わそうとしているところ。
「友さん」
と竜之助が、その広い原中で米友を呼びました。
「何だい」
「どうだい、もう一度、二人で江戸へ行こうか」
「御免だよ」
「どうして」
「江戸へ出ると、苦労が絶えねえわな」
「どこにいたって苦労はあるだろう」
「うむ」
「あの犬はどうしたエ」
「ムクか」
「そうだ」
「あいつはなあ――」
 米友は感慨無量の面色《かおいろ》で、勢州街道の方に向って嘯《うそぶ》きました。
「どこの国に、どううろついていやがるかなあ」
「死にはしないだろう」
「死にゃしねえよ、あいつのことだから、へたな死に方はしねえにきまってるがなあ」
「生きていれば、また逢えるだろう、全くいい犬だったな」
「いい犬にもなんにも……」
 米友はその円い眼に露を宿して、
「天下に二つとねえ犬なんだ」
「そうだ――」
「だが、あいつは、無事でいてくれるかなあ。無事でいてくれたって、こう遠く離れちまっちゃあ、またふたたび会うということはできめえなあ」
「うむ――いったい、お前はあの犬をどこへ逃がしたのだ」
「逃がしたわけじゃねえんだ、お松様につけてやったようなものなんだ、ほかの人ならとにかく、お松さんなら預けて置いて安心ができるからな。だが、人間というものは、老少不定《ろうしょうふじょう》なもんだから、お松さんが、もしものことがあって……きみ公[#「きみ公」に傍点]のようになってしまった日にゃ、ムクを可愛がる奴がいねえ」
「うむ」
「そうなると、ムクが野良犬になる」
「うむ」
「人間は落ちぶれても、正直にさえしていりゃあ、人が助けるけれど、犬が野良になった日にゃ、犬殺しの手にかかるよりほかは、行き道がねえだろう」
「うむ」
「ムク!」
 その時、米友が突然、大きな声をあげてムクの名を呼びました。無論、ムクの幻影がそこへ現われたわけではありません。何か懐旧と、愛撫の情でたまらなくなって、米友が突然大声をあげたまでのことです。
「ムクの奴にも、ずいぶん苦労をさせたよ」
と米友が、竜之助の前で言う声が、血を吐くようです。
「ムクの奴にもずいぶん苦労をさせたからなあ。間《あい》の山《やま》にいりゃあ、何のことはなかったんだけれど、今となっちゃあ、みんな死別れ、生別れだあな」
 こう言って米友は、我知らず立ちどまって、地団駄《じだんだ》を踏み、
「おいらなんぞは、ひとりぼっちで、生きてるにゃあ生きてるけんど、何のために生きてるのだか、さっぱりわからねえ! それを考えると、おいらはもう、お前をお城あとまで送り届けるのもいやになった、行くのもいやだから、帰《けえ》るのはなおいやだ。ああ、そうだそうだ、お前は腕が利《き》いているから、おいらを、ここで、パッサリとやってくんねえか」
 米友は、杖も信玄袋も投げ捨てて、和佐見ヶ原の真中に神将立ちに突立って、喚《わめ》き出しました。



底本:「大菩薩峠14」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年6月24日第1刷発行
   「大菩薩峠15」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 八」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月20日初版発行
   「大菩薩峠 九」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月20日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年1月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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