さきほど小怪漢が運んだ大きな風呂敷包の一つは置いてあるけれども、立っているのは、その小怪漢ではなく、全く別な人、別な人といっても意外な人ではありませんでした。
常盤御前の墓の前で悪女を論じた、あの貴婦人――それが、立番でもしている如く、あの大荷物を下に、丸木橋を前にして立っている、そのほかには人ありとも見えません。
それでもお雪ちゃんは、ぎょっとしたが、先方ではこちらよりも早く気がついて、こっちを見つめていたもののようです。
「さきほどは、失礼いたしました」
お雪ちゃんはこう言って挨拶すると、先方も頭を下げました。頭を下げたけれども、その頭巾を取ったわけでもなし、取って挨拶しようとする素振もないことです。
お雪ちゃんは、この婦人を、いよいよ変った婦人だと見ないわけにはゆきません。特にこうして大きな荷物を、ほとんど道なき道へ運ばせて、どこへ行くつもりだろう、姿を見れば品格もあり、話を聞けば知識も見識もあり過ぎるほどある人だから、決して逃げ隠れして、曲事をたくらむ人であり得ようはずがないのに、その行動のいかにも暗いのに不審を打たずにはおられません。
でも、それに近づいて危険性のないことは、よく知っていますが、いよいよ近く歩み寄って行きますと、先方も、お雪ちゃんの来ることを忌《い》み憚《はばか》る気色は微塵《みじん》もありません。
八十四
お雪ちゃんが小笹の中を下へおりて行ったあとへ、それまでお雪ちゃんがいたあたりの地点で弁信の声がしました。
「お雪ちゃん――」
それは遅かったけれども、お雪ちゃんが焦《あせ》ったほどに、弁信は緩慢であったのではありません。
決して、神隠しになったわけでもなし、崖へ落ち込んだのでもなく、尋常に、お雪ちゃんのために、不破の古関のあとを偵察に行ったのですが、弁信の行きついた時分には、もう鈴慕の曲が消滅しておりました。
それさえ消滅すれば問題はないのですから、そのまま引返そうとした途端に、弁信は、また法然頭《ほうねんあたま》を左右に振って、杖を路傍の木蔭に立てなければならぬ事態の発生したというのは、そこで、たしかに弁信は、お銀様という人の声でなければならない声を聞いたからです。
この声が、ついに弁信を捉え、容易ならぬ感慨に耽《ふけ》らせました。
今ごろここで、あの女性の声を聞こうとは、さすがの弁信の勘も及ばなかったところで、この声は、忽《たちま》ち路傍の一方へそれてしまったが、一時は、弁信をして、無二無三にそのあとをたずねて追いかけようかとさえ思わせたくらいです。
しかし、勘に於てこそ卓絶のものはあれ、眼は不自由の身であり、足は勘を力に、極めて堅実な歩みをとるほかの力を持たない弁信には、ただ、立ちすくんで、お銀様の声を、聞き得べからざるところで聞いた、その因縁の判断のために、かなりの時間を費させたが、それがさめて、そうして、約束のお堂まで、勘をたよって戻り、声をあげて呼びましたけれど、その時はお雪ちゃんはいません――ほんの僅かの裏おもての道を、壮士らが詩吟をしたために、弁信が通り過ぎをして、そうして行違いになっただけのものです。
しかし、今またここへ来て、弁信が「お雪ちゃん」と呼んだ時は、その声がもう、お雪ちゃんの耳まで届かないだけの距離を隔たっていました。
しかし、弁信として、さまで悲歎も狼狽《ろうばい》もしないで、関屋の縁の方へと静かに取って返しました。
弁信が縁の方に来る時分に、二人の壮士は、談ずべきだけを談じつくして、さらばとここを立ち上った時です。
壮士は若干の茶代を置く。関守はていねいにお礼を言って、石刷かなにかを二三枚くれました。
そのあとへ、抜からず弁信が腰をかけてしまったものです。
「それでも今日は、お天気がよろしくて結構でございます、不破の関屋は荒れ果てて、なおもるものは秋の雨――と太平記にございましたが、雨の風情もさることながら、私共のように旅を致すものは、やっぱり降らない方がよろしうございます」
「お前さんは、どこからおいでになりましたな」
「信濃の国、白骨の温泉というところに、暫く足をとどめておりまして、それから飛騨の平湯というところを通りまして、高山の町から国越えをして、只今こちらへ到着いたしたばっかりでございます。不破の関屋の板びさしという、昔の名残《なご》りがなんとなく慕わしいものでございますから、こうして立寄らせていただきました」
「それはそれは、お見受け申せば、盲目《めくら》の御身で、よくまあ長の旅を……」
「はい、不自由を常と致せば不足なし、と東照公も仰せになりました、おかげさまで、目界《めかい》は不自由でございますが、勘の方が発達いたしておりますものでございますから、さのみ不自由は致しません。それに、ほかの良民方
前へ
次へ
全110ページ中105ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング