関屋のあとをおとずれても遅くはありません」
「でも、あれは、もう鈴慕に違いございませんもの。ああ、白骨の柳の間のことが思われます、違いません、ちっとも違いません、あの音色――あれをああして吹く人は、別の人であろうはずはありませんもの。弁信さんの勘が当りました、ほんとうに神様のようでした。ああ、いい音色……」
弁信にささえられて、じっとしてそれを聞き惚れていたのではありません、その音色にそそられて、しばしの間も、ここに留まることをもどかしがるお雪ちゃんの心――それを弁信は沈みきって、抑留しているのは、あえて自分が、それより一寸も進もうとしないのでわかります。
「弁信さん、早く行きましょう」
「まあ、もう少し待って下さい、あの一曲が終るまで」
「わたしは、じっとしていられない、あなたはあの笛の音を聞いて、わたしに留まれと言いますけれども、わたしは、あの笛の音を聞いて一層、じっとしてはいられない心持になりました、行きましょうよ、弁信さん」
「ああ――」
「いけませんねえ、弁信さん、今になって、そんな心細い姿をしてしまっては……第一、わたしが困っちまうじゃありませんか」
「お雪ちゃん、わたくしはあの笛の音が気に入りません」
「気に入るの入らないのって、なにも弁信さんに聞いてくれと言って吹いてるわけじゃないじゃありませんか。あれは鈴慕です、そうして吹いているその人も、わたしには、はっきりわかっているから、こんなに心がワクワクする、それが、弁信さんにもわからなけりゃならないはずじゃありませんか」
「それは、ようくわかっていますけれどね、お雪ちゃん――人というものは、高尚な音楽を吹いても、心に邪気がある時は、人を殺します。俗曲を吹いていても、その人の心が高尚ならば人を救います。今、あの短笛の音色は決して高尚なる音色ではありません」
「まあ、ほんとうに困りますねえ、弁信さんの耳は別物なんだから話にならないわ、わたしたちには高尚だか、殺伐《さつばつ》だか、そんなことはわかりません、ただ、尺八の音がして、それが鈴慕の曲だということだけがわかるのです、それだけでいいじゃありませんか――悪ければ悪いように、当人に穏かに忠告してあげれば、それで済むことじゃないの」
「そうではありません、あの音色は――曲はまさしく鈴慕ですけれども、音色は全く違います、あれあれ、あの殺気を帯びた高調をお聞きなさい、あの低く落ちたメリカリの間《ま》をお聞きなさい、弁信でさえも、妙な心持になります、女人に聞かせてはたまらない音色です――あれです、あれが真に人を悩殺するの音色です。今、あの人は尺八を持って、それに吹き込んでいるから、まだしも幸いでした、あれが剣を持てば人を抉《えぐ》る音なのです――女を見れば、貞操を奪わねばやまぬ音色なのです」
「ああ、どうしましょう、弁信さん、わたしも女ですけれども、わたしには、ちっとも、そんな感じは致しません――ただ、清らかな鈴慕の音ではありませんか」
「そう聞えることが、いよいよ魔力の深い証拠なのです――わたくしは、これより一尺も、あなたを進ませる気になりません、少なくともあの魔気が消滅するまでは、あの笛に近いところへ、あなたという人を近づけるわけには参りません」
「そんなことを言ったって弁信さん、いつまでも、ここにこうしておられますか――そんな魔気とやら、毒気とやらが、いつになって消滅するのですか」
「ですから、こうしましょう、お雪ちゃん」
と言って、弁信はお雪ちゃんを顧みて次の如く提言しました。
「お雪ちゃん、わたくしが一足さきに行って、様子を見て来ます、いかなる現場に、いかなる人と応対なさればこそ、ああまで一管の音色が変るものか、それを、わたくしが一人だけ一足さきに行って、一通り認めて参りますから、そうして、もし、わたくしが、ちょっとでも身を現わすことによって、またその場の空気が変らないとも限りません――そうして下さい、暫く、ここにあなた一人で待っていて下さい、お雪ちゃん」
「弁信さん、あなたが待っていろと言えば、それはわたしは待たないとは言いませんけれど――何といっても、ここは関ヶ原のまんなかで、淋しいところです、淋しいのは厭《いと》いませんが、ここまで、ついぞ離れなかった弁信さんと、ちょっとの間でも離れるのが、わたしはなんだか気になってなりません、平常《ふだん》ならば何でもないのですけれど、弁信さんが、今もあんなことを言うものだから……」
「どこか、その辺に、あなたの休んでいるような家はありませんか」
「ありませんね、あ、あそこに、ちょっとしたお堂の屋根が一つ見えます」
「では、そのお堂に、人が住んでいましたら、一応の御挨拶をし、誰もおりませんでしたら、そのまま、ほんの少しの間、待っていて下さい」
「では、そうしましょう、弁信さ
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