腕と眼の肥えたことは自認するけれども、この腕前を見せてやろうというような野心が、もうすっかり消磨しているのですから、そこで主膳の書道に於ては、衒気《げんき》、匠気というものから、頼まないのに解放されて、独《ひと》りを楽しむという高尚な域に近くなっているのです。その結果として、功利的方面から見れば、主膳が書道に一時間凝れば、一時間だけ自分は不善の閑境から救われる、その周囲は、不善の伝染性から遁《のが》れるという勘定になっていて、主膳自身はそれを覚りません。
今日はどこからの帰り途か、神尾主膳は馴染《なじみ》の、浅草の馬道の本屋の前に現われました。
番頭は、このお客様がたいへんお眼が高くていらっしゃって、現代及び近世ものは振向いてもごらんにならないことを知っているし、ことに今日は何か取って置きの期待があるので、勇みをなして主膳を迎え、
「殿様、たいした掘出し物が出ました、これなら必ず殿様のお気に召すと存じます」
「何だ」
「弘法大師が出てまいりました」
「なに?」
「これこそ正銘の極印附きでございまして、鵬斎《ほうさい》先生の御門下が京の東寺へつてがあって、それからお手に入りました品でございます」
「ふーん」
と神尾主膳が、頭巾の中から浮かぬ返事をしてみせたが、本屋の番頭は失望しないで、かえって乗り気になり、箱入りの一本を棚から取下ろし、恭《うやうや》しく主膳の前に中身を繰りひろげました。
「それが、その弘法大師か」
「はい」
「ふーん」
神尾主膳の返事はむしろ冷笑気味でしたけれども、番頭がそれに降参しないのは、番頭としても相当の自信――他信から移された自信というものがあるからでしょう。
それは般若心経《はんにゃしんぎょう》かなにかを書いた残欠本の仮表装でありました。
「いかがでございます――これは珍品でございます」
「ふーん」
神尾主膳は、それでも一通り右の心経の残欠本――伝弘法大師筆と称うるところのものに目をくれていました。
「全く、近来の偉大なる掘出し物でございます」
と言って番頭が、下へも置かない気持でいるのを、主膳が、
「ふふーん」
と鼻であしらいました。
今まであしらっていたのは、ただ「ふーん」という軽いあしらいでしたが、今度のは、「ふふーん」となって、ふが一字だけ多いのに過ぎないが、それは明らかなる冷笑と排斥の意味ですから、番頭が狼狽《ろうばい》しました。
「いけませんか、違いますか、左様なはずはございません」
「誰が、これを弘法大師だと言った」
「鵬斎先生の御門下は、どなたも保証でございます」
「ばかな!」
神尾主膳が、冷笑に代ゆるに罵倒を以てしました。
「え!」
「こんな弘法大師がどこにある」
「だって殿様――もうお歴々のお方が保証をなさらぬはございません、こういうことになりますと、書家の書と違いまして、それだけの人格が備わらなければ書けるものではない、こういう風格は、偽作などしようと思っても及びもつかないものだそうでございます」
「弘法ではないよ」
「では、どなたでございましょう」
ここで番頭は反問の気味となったのは、弘法でなければその反証をあげて見せろという、婉曲《えんきょく》なる抗議でありました。主膳は取って投げるように、
「それは越後の良寛という田舎寺《いなかでら》の坊主の手だ、なるほど、ちょっと乙なところもあるが、これを弘法だなんぞとは、猫を指して虎というようなもので、規模も、輪郭も、問題にはなっておらん」
「ははあ、越後の良寛という出家の筆ですかな」
「弘法大師などとは及びもつかぬことだが、良寛は良寛だけに見て置けばよろしい、近頃のわいわい連が、何と思ってか、方図もなく良寛を担ぎ出したものだから、天晴《あっぱ》れの高僧智識ででもあるかの如く心得る奴もあるが、本来あいつは、越後の田舎寺のちょっと変った坊主というだけのもので、弘法大師に比べるなんぞは笑止千万な次第で、鵬斎の弟子共あたりが担ぐのに手頃の代物《しろもの》だ」
神尾主膳はこう言って、一も二もなく良寛を追っぱらってしまったが、書幅を持ちかかえながら番頭がすっぱい面《かお》をしているのを、多少気の毒とでも見たか、
「だが、こいつだってまんざら捨てたものじゃない、好く奴は好くだろうから、越後の良寛という田舎寺の変った坊主の筆だと心得て持っていればよい、弘法大師などとは論外の沙汰《さた》だ」
こう言って多少、良寛に余地を与えたようだが、かえってそれを奪ってしまうようなものです。
それから以後、主膳は良寛には見向きもせずに、
「どうだ、支那の拓本で、何か変ったものは出ないか」
七十二
その時、街頭に騒がしい物音が起りました。
店の番頭も、支那の拓本をあさっていた神尾も、その物音の起った方面を見ないわけにはゆ
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