しい、いけ図々しい雲助らは、道庵めがけ近寄ると見れば、無茶にも、惨酷にも、あっと言う猶予も与えず道庵に飛びかかって、さながらパッチ網にかかった雲雀《ひばり》を抑えるが如く、左右から道庵を押し転がし、取って抑えて、有無《うむ》をも言わせません。
「あ、こいつは、たまらねえ」
 そうして道庵がうんが[#「うんが」に傍点]の声を揚げ得た時は、もう、軽々と引きさらわれて、道に置き放した商売道具の四枚肩中へ無理に押込まれたその途端のことで、かくの如く、有無をも言わさず道庵を取って抑えて駕籠の中へ押込んだ雲助は、群がる見物の驚き騒ぐを尻目にかけて、そのまま駕籠を肩にして、
「エッサッサ、エッサッサ」
 飛ぶが如くに西の方――つまり木曾川から岐阜、大垣の方面、道庵主従が目指す旅路の方面と同じではありますが――へ、雲助霞助に飛んで行ってしまうのです。
 これは実に、誰にも分らない雲助の振舞であり、今日まで、脱線と面食《めんくら》いにかけては、かなり腕にも頭にも覚えのあり過ぎる道庵自身すらが、全く解釈のできない、非常突発の行為でありました。
 それは、つもってみても分らず、苟《いやしく》もファッショイ、三ぴんの余党でない限り、道庵に対して、この辺にそう魂胆や遺恨を持っている者はないはず――
 また、道庵先生がもう少し若くて、別嬪《べっぴん》ででもあるならば格別――そうでなくても、もうすこし福々しいお爺さんででもあるならば、さらわれる方も覚えがあり、さらう方もさらい甲斐があろうものを、大江戸の真中へ抛《ほう》り出して置いても拾い手のなかったじじむさい親爺が、尾張の清洲へ来てさらわれるようなことになろうとは信ぜられぬことでした。
 だが、世間には、好んでお医者を担ぎたがる悪趣味者がある。
 京都のある方面の、仏法僧の啼《な》く山奥へ医者を担ぎ込んで、私闘の創《きず》を縫わせた悪徒もある。
 或る好奇《ものずき》なお大名が、相馬の古御所もどきの趣向をして、医者を誘拐して来て弄《もてあそ》んだというようなこともないではない。そのいずれにしても、道庵の蒙《こうむ》る迷惑と困却とは、容易なものではないことは分りきっています。そこで、走り行く雲助霞助の中にいて、駕籠越しに有らん限りの号泣と、絶叫とをはじめました、
「友様――後生《ごしょう》だから助けてくれ!」

         八

 熊を洗濯することに我を忘れていた米友は、道庵先生の九死一生の絶叫を聞き漏すことではありません。
 俄然として醒《さ》めて、そうして声のする方を見ると、今し道庵が、二人の雲助のために無理無態に駕籠の中に押込まれて、担ぎ去られる瞬間でしたから、すっくと熊を抛擲《ほうてき》して立ち上りました。
 しかし、この際、米友の責任感としては、前後の事情を忘却することを許しません。わが師と頼む道庵先生が、またしてもの九死一生の危急を瞬時も猶予すべきではないが、同時に、この動物をこのままにして置いてはいけないということの、民衆的警戒性が閃《ひらめ》きました。
 なぜならば、たとえ子供とはいえ、猛獣の部類である。日本に棲《す》む動物としては、これより以上の猛獣は無い。その子熊をこのままにして馳《は》せつけた日には、後患のほどが思いやられる。現にただ出現したことだけによって、先日のあの講演会の席の混乱はどうです。あの時はあれだけで済んだものの、まだこいつは、躾《しつけ》が足りないから、人の出ようによってはいかなる猛勇ぶりを発揮するか知れたものではない。子供の二人や三人を引裂くのは朝飯前の手並であり、まかり間違えば、人畜に夥《おびただ》しい被害を与えないとも限らないのだ。
 先生の危急は危急として、それに赴くためにはまず、この駄々ッ子から処分してかからねばならぬ。賢くも米友は、こうも感づいたのですが、そこは上手の手からも水が漏れるので、米友が道庵の声に驚いて立ち上った瞬間の隙《すき》を覘《ねら》って、右の駄々ッ子が素早く陸へ飛び上ったかと見ると、通りかかった子供が三人、火のつくように泣き叫びました。
「それ見たことか」
 幸いにして、まだ子供を引裂いて食っているというわけではなく、子供の方へ向って馳け出しただけのところを、米友が後ろから行って引捉《ひっとら》えると、それを振切って、人間の子供と遊ぼうと駄々をこねる熊――そうはさせじと引き留むる米友。この際、熊を相手にくんずほぐれつの仕儀となりました。
「ちぇッ――仕様がねえ熊の餓鬼だなあ」
 米友は歎息しながら熊を取って抑える。事実、米友なればこそです、子熊とはいえ、羈絆《きはん》を脱して自由を求むる本能性の溢れきったこの猛獣族を、この場合に取って抑えることのできたのは米友なればこそです。
 こうして子熊を取って抑えて、むりやりに檻の中に押込む米友
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