城により、後、秀次の城邑《じょうゆう》となり――関ヶ原の時にはしかじか、後、福島正則が封ぜられ、家康の第四子忠吉より義直に至って――この城を名古屋に移すまでの治乱興廃を考え、従って五条川がここを流れ、天守台はあの辺でなければならぬ、斯波《しば》氏のいたのをこの辺とすれば御薗は当然あれであり、植木屋敷があの辺とすれば山吹御所はこの辺でなければならぬ、ここに大手があって、あちらに廓《くるわ》がある。翻って城下の形勢を観察すると、ここがやっぱり昔の往還になっていわゆる須賀口というやつは、今、田圃《たんぼ》になっている。
[#ここから2字下げ]
酒は酒屋に
よい茶は茶屋に
女郎は清洲の須賀口に
[#ここで字下げ終わり]
そうだ、それから考えてみると、出雲の阿国《おくに》がしゃなりしゃなりと静かに乗込んで、戦国大名に涎《よだれ》を流させたのはこのところだ。
須賀口から熱田の方へ行く道に「義元塚」というのがあるから、ついでがあらば弔《とむら》ってやって下さいとお茶坊主が言った――義元といえば哀れなものさ、小冠者信長に名を成させたも彼が油断の故にこそ、信長が無かりさえすれば、武田よりも、上杉よりも、毛利よりも、誰よりも先に旗を都に押立てたものは彼だろう。家柄だって彼等よりずっと上だからな。そうなると信長はもとより、勝家も、秀吉も、頭を上げるこたあできねえ、人間万事、夢のようなものさ。そういえばそれ、この城から桶狭間《おけはざま》へ向けて進発する時の、小冠者信長の当時の心境を思わなけりゃあならねえ。
[#ここから2字下げ]
人間五十年、化転《けてん》の内を較《くら》ぶれば、夢幻《ゆめまぼろし》の如くなり
ひとたび生《しょう》をうけ、滅せぬもののあるべきか
[#ここで字下げ終わり]
世間並みのやり手は、芝居がかりで世間を欺くが、信長ときてはお能がかりだ。
[#ここから2字下げ]
人間五十年、化転の内を較ぶれば……
[#ここで字下げ終わり]
道庵先生はこの時、異様な声を張り上げて、繰返し繰返しこの文句を唸《うな》り出しましたので、さてこそと集まるほどのものが、いよいよ眼と眼を見合わせました。
この異様なる音律を、繰返し繰返ししているうちに、道庵先生の自己感激が著《いちじる》しく内攻して来たと見ると、音声だけでなくて、一種異様なる身体《からだ》の律動をはじめてしまいました。
しかし、それとても、無学文盲なるこの辺の児童走卒にこそ、道庵先生の為すところのすべてが異様にも異常にも感ぜられるのだが、実際はお得意の喜多流(?)によって、謡につれて徐《おもむ》ろに、仕舞と称する高尚なる身体の旋律運動を試みているだけのものなのです。
この先生が、馬鹿噺子《ばかばやし》にかけては古今きっての自称大家であることは、知るものは誰も知っているところだが、それよりも一段と高尚なるお能と仕舞とに就いても、これほどの造詣があるということを買ってくれる人のいないのが浅ましいことではないか。
しかし、御当人は、買ってくれる人があろうがあるまいが、御当人の自己感激は、こうしていよいよ深み行くばかりで、もはや眼中に清洲の城址も無く、あたり近所の児童走卒も無く、古英雄信長もなく、今川義元もなく、ただ人生五十年の夢幻と、他生化転の宇宙実在とがあるばかり。自己感激はついに悠然として自己陶酔にまで進み入りました。
しかしながら、いつもの型の通りに、この放恣浩蕩《ほうしこうとう》なる自己陶酔から、わが道庵先生の身辺と心境とを微塵に打砕くものの出現は、運命と言おうか、定業《じょうごう》と言おうか、是非なき必至の因縁でありました。
七
この場面へ、東の方より、つまり先刻道庵先生がファッショイ共を相手に一代の武勇をふるった枇杷島橋の方面からです、一梃の駕籠《かご》を肩に、まっしぐらにはせつけて来た二人の仁があります。
これは雲助です。
道中をこうして駕籠をかついで走る者に、雲助以外のものがあろうはずはありますまい。
世間では往々、雲助と折助とを混同する者がある。混同しないまでも、ほぼ同様の性質を持っていると見るものがあるが、それは大きなあやまりで、雲助にとっては大きな冤罪《えんざい》であるが、その事は後に談ずることとし、とにかく、この場に於ける二人の逞《たくま》しい雲助は、この地点までまっしぐらに走って来たが、ただ見る清洲古城址の草の青黄色いところに、一人の狂人らしいのが児童走卒に囲まれながら、しきりに身ぶり声色を試みている体《てい》たらくを発見するや、後棒と先棒との見合わせる目から火花が散って、
「合点《がってん》だ」
駕籠をそこにおっぽり出して、向う鉢巻勇ましく、やにわに走りかかって来たのは、意外にも道庵先生の身辺でありました。
右の二人の逞
前へ
次へ
全110ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング