いい男の首塚が、ついこの辺になければならぬ。
わたしは、何をおいても、あの人の墓をとむらってあげなければならぬ――明日、明朝――いいえ、今夜これから――ちょうど、月もあるし……
大谷吉隆の首塚を、わたしは、これから、とむらってあげなければならない。
二十一
あの晩、道場へ逃げ込んだために虎口を遁《のが》れたお雪ちゃんは、おりから道場の中で居合を抜いていた宇津木兵馬のために擁護されました。
しかしお雪ちゃんも、それが兵馬であると知って救いを求めたのではなく、兵馬もまたお雪ちゃんと知って、その急を救ったのではありません。忽《たちま》ち続いて起ったあの兇変のために、おたがいの見知り人などは飛んでしまいましたけれども、翌日になれば、それは当然、あいわからなければならないことであります。
わかってみれば、それは上野原以来の相識《あいし》れる人でした。すなわち、道に悩んで一杯の水を求めた人が兵馬で、快くそれを与えたのみならず、温き一夜の宿もかしたのがお雪ちゃんであります。
兵馬とお雪ちゃんとの名乗り合いがあり、その後のおたがいの変化のある身の上話があり、結局は再び相応院へ送られては来たが、その住居《すまい》には竜之助がいないのみならず、貸本屋の政どんが来た形跡があり、それと同時に何者にかいたく踏み荒されて行った跡が歴々であります。けれどもお雪ちゃんは、器用にそれを兵馬には押隠し、自分の生活は、久助さんのほかには水入らずだということを示し、同居人、すなわち竜之助のことを兵馬に語るはずのないのは、その以前から二人の間にわだかまる何物かを察しているからのことです。
そのうちにお雪ちゃんは、いろいろの方面から、それとなく聞き込んだところによると、どうも、あの代官を殺し、妾を奪うたという大悪人が、自分と生活を共にしていた竜之助ではないか、あの人に相違ない――というような心に打たれて、身も世もあらぬほどに驚き、同時に、竜之助はもはやここへは決して帰って来ないということを信ずるに至りました。
竜之助はいない――ということをお雪ちゃんが見極めてしまって、兵馬を迎えるような順序に知らず識《し》らず落ちて行ったことは、兵馬も強《し》いてこちらへ来るつもりもなく、お雪ちゃんも決して兵馬に来てもらうつもりはなかったのですが、この際、一人の生活の不安と、それから兵馬
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