に訴えました。
 それは、この清洲の城、あの背後に俗に山吹御殿という一廓があって、かなり広大な家屋敷を持っているが――こんどそこの当主が肥後の熊本へ旅立ちをする。都合によっては長くかの地で暮すようになるかも知れない。そこで相当の留守居をつけてこの屋敷を引払うことになった。その留守番に、否応いわさず、自分が引受けさせて、熊の養育を托して置いてやる。あそこならば邸内は広いし、熊一匹養いきれないほどの身上ではなし、留守居の人間も親切であり、動物好きだから、むしろ喜んで面倒を見るにきまっている。
 それを聞くと、米友が深く頷《うなず》いてしまいました。

 やがて米友が熊の檻の大八車を引き出すと、岡崎藩の美少年が、そのあと押しをして、えんやらやあと山吹御殿に引き込んで行くのを認めます。

         十三

 それからまたやや暫くの後、この屋敷から現われた二人の者の一人は、空身になった米友に相違ないが、もう一人の方は、これも確かに岡崎藩の美少年には相違ないが、これだけは風采《ふうさい》が全く変っている。
 米友は依然として米友、車を曳かないだけの米友ですが、美少年は饅頭笠《まんじゅうがさ》に赤合羽といったような、素丁稚姿《すでっちすがた》にすっかり身を落している。
 こうして二人は街道を西へ向って急いで行きます。
 木曾路の脱線から、怠りがちであった里程表を、この辺から、名古屋を起点にはじめてみますと、
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名古屋より清洲へ一里半
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 そうして清洲から次の丁場を一里半、稲葉へ曲ろうとする六角堂まで、変装した美少年が先に立って急いでやって来ましたが、六角堂へ来ると堂の前で立ち止まりました。
 これより先、そこに待合わせていたらしい一行がある。
 この一行はかなり物々しい乗物二梃に、数名の従者と、それが槍一筋を押立てていることによって、庶民階級の旅人でないことがよくわかります。
 ここへ追いついて、ホッと息をついた岡崎藩の美少年の物ごしを見て、米友は、ははあ、この少年はこの一行に合するために、わざわざ変装して来たのだということが充分に呑込めました。
 待合わせていた一行もまた、美少年の来り合したことを会釈《えしゃく》して、しからばいざ一刻も早く、という段取りでした。
 美少年は、額《ひたい》に滲《にじ》む汗を拭いながら、自分は休
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