ない。それは長い間には、自分たちも苦労をしたり、ムクにもずいぶん苦労をさせたが、ムクそのものがかえって我々に苦労をかけたことは一度もない。我々に苦労をかけないのみならず、我々が憂うる時は、我々と共に憂えたが、我々が喜ぶべき時に、彼を喜ばせなかったことが幾度あるか知れない。
それだのに、ついぞあの犬が、不平と反抗とを表現したことがあるか。あれほどの豪犬だから、食物だって世間並みでは不足があたりまえだのに、世間並みの栄養を給してやることができなかったばかりか、旅路の間では、二日も三日も食わせずに置いたようなこともないではなかったのだ。
その時、いつ、あいつがひもじい顔をして見せたことがあるか。食物の催促をして見せたことがあるか。今、この子熊がしたように、ガツガツして居催促を試みたことがあるか。
十二
宇治山田の米友は、こうして熊の檻車の前に腰打ちかけて、頬杖を突いて何か深く考え込んでしまいました。
今は、ちょっと立ち上る気にもなれず、立ち上ったところで、どこへどう車を引張り出していいのか、見当がつかず、深い沈黙のうちに若干の時が経ちました。
「君!」
後ろから肩を叩いた者がある。
「ああ」
茫然《ぼうぜん》として米友は見廻す。そこに立っているのは、さいぜんの仲人、岡崎藩の美少年梶川与之助でありました。
「何を考え込んでいるのだ」
「何も考えていやあしねえ」
「ともかく、君、あの山吹屋敷まで来ちゃどうだね、君の尋ねるお医者さんのことは心配するがものはないそうだ」
「うん」
「生命には別条なく、これから西へ向って何駅かの間に、極めて無事に、あの先生を発見する見込みがあるそうだから――それはそれでよいとして、君には、あの先生よりも、この荷物が荷になるだろう」
「ううん」
ううんというのは、否定の意味だか、肯定の意味だかよく分らないが、そう言われてみると、この荷物が荷にならないではない、本来ならば、安否がどうあろうとも、あのことの解決のついたと同時に、道庵先生のあとを慕うて一文字に追いかけなければならぬはずのものが、ぼんやりこうして考え込んでしまっているのは、米友は米友としての深い感慨におちて、その言い知れぬ感慨が米友の頭を重くし、足を鈍くしたものには相違ないが、一方から言えば、このお荷物あればこそである。これさえなければ、ここにこうしてぼん
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