名分が、どうしてもあちらに取られてしまいそうなことです。
この音公は、軽井沢に於ける裸松のように、街道筋から毒虫扱いにされているというほどではないのみならず、草相撲で博した贔屓《ひいき》も人気もあるのに、相手にとった一種異様なグロテスクは、土地の人にさっぱり顔馴染《かおなじみ》がないのみならず、「馬泥棒馬泥棒」という相手方の宣伝が甚《はなはだ》しく、米友にとって不利なものになります。
事実この音公は、米友を馬泥棒以外の何者とも解釈のしようがなく、見物の人々も馬泥棒の仕業《しわざ》とよりしか米友の仕業を信じ得べき事情を知らないから、すべての環境も、心証も、いよいよ以て米友を不利なものに陥れてしまうのです。
ただ、かくて見物しながらも、寄ってたかって米友を袋叩きにしてしまわないことは、米友の働きが俊敏であって、怖るべきものがある上に、その態度にドコやら真摯《しんし》なるものがあって、左右《そう》なくは手出しのできない気勢に打たれて、そのまま見ているだけのものですから、群集心理の如何《いかん》によっては、どう形勢が変化しないとも限らず、いずれにしても米友のためには百の不利あって、一の同情が作り出されないというだけのものです。
そういう事情から、米友の戦いにくいことがいよいよ夥《おびただ》しく、第一、自分自身の正義観からしてが、軽井沢の時のようには働きがないから、投げつけてみたところで、大地にメリ込むほどやっつける気力が減退し、相手に怪我をさせてまでその戦闘力を封じる手段にも出で難く、そこで米友としては、その力の十分の一も発揮できないでいる始末です――
こんな形勢が続けば、いよいよ以て米友の立場が悪化するばかりです。米友としては、ほとんど進退に窮する場合にまで立至って、徒らに組んずほぐれつしていましたが、相手はいよいよ嵩《かさ》にかかって、小力を十二分に発揮して相撲の手を濫用して来るから、米友が怒りました。別の意味で怒りました。
こうなった上は、こっちを本当にやっつけておいてからでないと動きがとれない――
みるみる米友の眼に、すさまじい真剣の気合が満ち、
「やい――わからずや!」
音公をなげつけておいて杖槍を取り上げたものだから、音公が、
「盗人《ぬすっと》たけだけしいとは、本当に手前《てめえ》のことだ、うむ、どうするか」
掴《つか》みかかろうとした音公が
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