無く、兵馬が手さぐりに近づく物音にも、お雪ちゃんはいっこう驚かず、やっと火打をさぐりあて、カチカチときっ[#「きっ」に傍点]た物音にも、パッと明るくした明りにも、お雪ちゃんはいっこう醒めず、その行燈《あんどん》で兵馬が一応室内をあらためて見た時、いずれの部屋にもお雪ちゃんの姿を見出すことができません。それでも室内は出て行った時のまま整然として、誰も踏み込んだ形勢はない、お雪ちゃんのよそゆきであるべき衣裳すらが、そっくりと衣桁《いこう》に掛けたままです。

         三十

 お絹の世話で、砂金掘りの忠作は、ついに異人館のボーイとして住込むことになりました。
 ここで、親しく異人の生活の実際に触れてみると、忠作としては、今までの想像に幾倍する経験と知識とにあがきを感ずるほどです。
 敏慧なこの少年は、ここで一から十までも学び尽さねばおかないという気になりました。
 まず、異人館の間取間取を覚え、その器具調度の名を覚え、かの地から持ち込まれた商品と器械とを逐一《ちくいち》に見学して、頭と手帳に留めてしまいました。
 その間に西洋人というものの気風をすっかり呑込まなければならないと考え、西洋人にも幾通りもあることを知り、そうして、日本人の大部分が、それを毛唐《けとう》という軽蔑語で一掃してしまうことの無知を今更のようにさとり、異人の気風を知るには、まず異人の国々を知り、その国々の歴史と成立ちをも知らなければならないということに気がつくと、その方面の学問を、多少に限らず頭に入れておかなければならないと知ったのはあたりまえです。
 そういうふうに頭の働く少年にとっては、見るもの聞くものが、ことごとく新知識となって吸入されぬということはなく、忠作の得た結論は、どうしても、今の日本人よりは毛唐の方が遥かに進んでいる――日本人は獣類同様、或いはそれ以下に異人を見下しているけれども、事実、仕事をする上に於ての大仕掛と、金儲《かねもう》けの規模の世界的なることに於て、今の日本人は梯子《はしご》をかけても及ばないことを知り、異人が必ずしも日本の国をとりに来たというわけのものではなく、談笑の間に商売をしに来たのだということの方面が、忠作にはよくわかり、そうして将来の商売はどうしても、この異人を相手にしなければ大きくなれないということを、すっかり腹に入れてしまいました。
 だが同時に
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