すが、実は、わしたちも心願がございまして、諸国を巡ってみてえとこう思って出て参りました身の上でございます」
「そりゃ、諸国を巡ることは悪いとは言わないが、どうだ、もう少し、普請が終るとか、終らないとかいうような時をきめる必要はない、いやになる時節まで、わしがところにいてもらえないかな」
「はい」
与八は、伊太夫|直々《じきじき》のこの好意に対して、何と返事をしていいかわからない。人を使うことも、人を信ずることもかなり厳密なこの大家の主人が、直々に、初対面といってよい与八に対して、こんな言葉を下し置かれるというのは、かなり異例であるということを与八はよく呑込んではいないで、どういうわけかこの主人が、自分に対して特別、好意を持っていてくれるということはよく分るのです。与八の明答に苦しむのを見て取ったかのように、伊太夫が言葉をつけ加えました、
「わしの家も、今こそこの通り混雑しているが、これが済んでしまった日には、ひっそりしてしまうのだ、雇人もかなりいるにはいるがね、急に、家中がにぎやかになるというわけにはいかないのだ」
与八は、なんだかこの言葉のうちに、痛々しいものがあるように思われてなりませんでした。
ああ、そうそう、そう言えば、この間の火事で、ここの奥様と、あととりの坊ちゃまが、焼け死んでしまわれたそうな。それに、一粒種のお嬢様というのが、一筋縄ではいかない方で、今、遠くの方へ旅をしておいでなさるとか。してみると、ここの御主人が寂《さび》しいとおっしゃるお心持も、ほぼお察し申すことができるようだ。
三
それから間もないこと、藤原家の番頭から別に話があって、与八はこの家の別扱いの雇人となりました。
臨時の人足として使われた男が、穀物庫の傍らの一室を給されて、この家の准家族のような待遇を与えられる身となりました。
与八としては、強《し》いてこれを辞退もしなかったが、そうかといって、永くこの家の奉公人となりきるつもりはありませんでした。
だが、こうなっていることは、自分はとにかく、郁太郎の教育のためによいことだと思わずにはおられません。
ともかく、今までの相部屋《あいべや》と違い、自分としての一家一室が与えられることになると、与八は沢井を離れてから、はじめて居心地が落着いたのです。
郁太郎、どうしたものかこの子の発育が、肉体、知能と
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