ども、ただなんとなく、急に立去り難いものがある。せめて、あの船の着くのを見ていてやりたいような気分から、傍《かた》えの小尼を相手に暫くの間――
「お前さん、あの船で来る人を待っているの?」
「はい、お父《とっ》さんが、たぶんあの船でいらっしゃるだろうと思います」
「そう……」
 お銀様はなにげなく受けたけれども、この小尼が言ったお父さんという言葉が、異様な感じをもって聞えました。
 いとけないのに尼さんにされるほどの運命を持った人の子というものには、どうせ温かい親というものの観念からは遠かろうと思われるのに、父を待ちこがれるらしいこの子のそぶりを異様に感じながら、お銀様は桑名戻りの船を見ている。小尼もまた同じようにして、お銀様の傍を離れようとはしない。船はようやく近づいて来る。船が着くと、河岸一帯がどよめいてくる。お銀様は、乗込みの先を争うわけではなく、到着の人を待ち受けるわけではないけれども、それでもその動揺の空気につれて、なんとなくわが心もどよめいてくる心地がする。
 その時、固唾《かたず》をのんでいた小尼が、お銀様の面《かお》を見上げるように言いました、
「モシ、わたしのお父さん
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