も、留まろうとも問題にはしていないが、あの人には逢いたいよ、あの人ばっかりは放せない、目の見えない人が好きなのだよ、わたしは……
 お銀様の眼は、やはり天の一方を睨めながら、冷然として、こういって言い返してやったつもりだが、昂奮がおのずから形に現われて、お高祖頭巾がわなわなと慄《ふる》えているのを見る。
 その時に、お銀様の頭脳いっぱいに燃えたったのは、躑躅《つつじ》ヶ崎《さき》のあの九死一生の場面と、染井の化物屋敷でどろどろにもつれ合ったあの重苦しい爛酔、瞑眩《めいげん》、悩乱、初恋は魂と魂とが萌《も》え出づるものだそうだけれども、魂と魂とが腐れ合って、そこから醗酵する快楽!
 それが忘れられない。
 弁信さん、せっかくだけれども、わたしはお前さんのことを考えているのではない、あの人のことを忘れられないでいるのよ。お前さんはどこへ行って、これからまた何をお喋りして歩こうとも、わたしは妨げない、わたしはわたしとして、好きな道を行くんだから、いいのよ。
 だが、それにしては、いったい、今度の旅は何だろう。あのお角という鉄火者《てっかもの》が、父を口説《くど》き落したその口車に自分も乗せら
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