たろう」
「不思議だ」
 この時、裏口から面《かお》を出した風呂番の嘉七おやじが、
「弁信さんなら、もうちっとさっき、一人で風呂に入っていなさるのがそれでがんしょう――もうかなり長いこと、おとなしく湯槽《ゆぶね》につかっていなさるようですが、もう上ったかと見ると、音がしたり、念仏の声なんぞが出てまいります」
「ああそうか」
「なあんだ」
 それで安心したような、気を抜かれたようなあんばいで、一座ががっかりしました。

         四十九

 嘉七の報告通り、もうずっと以前、ちょうど鐙小屋の神主が抜からぬ面で、この炉辺を訪れた時分に、弁信はいつ起きたのか、ぶらりとやって来て、大一番の湯槽の中を、我れ一人の天下とばかり身をぶちこんでおりました。
 適度の湯加減になっている槽を選んで、それに身を浸けた弁信は、仰ぐともなく明り取りの窓のあたりを仰ぎ、ゆるゆる首筋を洗いながら、物を考えているかと思えば、念仏か念経《ねんきん》かの声がする。
 山の鳴動から、この湯壺の底までが地響きをすると言って、一座のイカモノさえ気持悪がって逃げたこの湯槽の中に、弁信は一向そんなことにお感じがないようです。
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