蘭さんはおらんかね、ちょっとここをあけて頂戴」
 人の好いのを通り越して、全くだらしのない呼び声です。
 でも、中ではこのだらしのない呼び声が聞えていなければならないのに、いっこう返事がありません。返事がないものですから、
「お蘭さん、お目醒《めざ》めでないかい、おらがお蘭さんはおらんのかい」
 何といういやらしい猫撫声だ。
 これではまるで、お人好しの宿六が、嬶天下《かかあでんか》の御機嫌をとりに来たようなものではないか、郡民畏怖の的である新お代官の権威のために取らない。
 それにも拘らず、中ではいっこう返事がない。返事がないということは、中にたずねる人が存在していないということではなく、たずねる人がお冠《かんむり》を曲げてお拗《す》ねあそばしているから、それであらたかな御返しがないのだ――ということを誰も言っては聞かせないが、本人の良心に充分覚えがあるらしい。そこで御機嫌斜めな内《うち》つ方《かた》の御思惑《おんおもわく》を察してみると、お代官も権柄《けんぺい》ずくではどうにもならないから、下手《したで》に出てその雲行きの和《やわ》らぎを待つよりほかはないとあきらめたものらしい。

前へ 次へ
全433ページ中233ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング