の物ごしと言い、いま受けた印象をいよいよ鮮かにするのみで、微塵も、敵意と危険とを感ぜしめられないものですから、ホッと息をついて、
「どうも、とんだ失礼をいたしてしまいました」
 こうなってみると、自分の寝まき姿が恥かしい。
 だが、やっぱり神前の薄明りが幸いして、取乱した女の姿を、そう露骨に見せるということはありませんでした。
「まあ、こちらへいらっしゃい、まだ、ここを出てはいけません――もう少しここに忍んでいらっしゃい」
 この若い、おだやかな、敵意と危険とを微塵も感ぜしめない人は、徹底的に念の入った親切と用心で、静かに、道場の虎を描いた衝立《ついたて》の方に娘を誘《いざな》いました。

         三十五

 こうして道場の中はひっそりしているけれども、中庭を歩いて行く胡見沢は、いよいよ陽気になって、何かクドクドと口走りながら、庭をぐるぐる廻っているところを見ると、この男は酔うとむやみに陽気になり、御機嫌がよくなり、人が好くなってしまう点は、神尾主膳あたりとは全く酒癖を異にしているらしい。
 やや暫くして、例のお部屋様の戸の外に立ってことことと叩き、
「お蘭さん、お蘭さん、お
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