ところが、内には白刃を提げて立っているその人は、透かさず自分に向って飛びかかって来るでもなく、おどかしつけるでもなく、何の音沙汰もないのに、一方、その大戸の方の戸をしきりにガタつかせていた追手の胡見沢は、それもあぐみ果ててしまったと見え、
「あかないな、あかなければあかないでよろしいぞ、離れへ逃げたな、たれもおらん、おらんと洒落《しゃれ》のめして、お蘭のゆもじ[#「ゆもじ」に傍点]の下へ逃げ込んだな、うまくやった、お蘭がそこにおらんという洒落は苦しいぞ、だが、あっちは鬼門じゃてな――お蘭め、さだめて角を生やしているこっちゃろう、こいつは一番|兜《かぶと》を脱がにゃなるまい、明朝になってでは後手に廻るおそれがあるから、お蘭がところへひとつ、このままおわびと出かけるかな」
 こう言って、胡見沢はまたカランコロンと庭下駄の乱調子で庭をくぐり歩いて行くのは、別邸のお蘭の部屋を目指して行くものと見える。
 ろれつの廻らない出鱈目《でたらめ》のうちにも、ほぼ本性は見える。やっぱりこの娘を口説《くど》き損ねて逃げられ、逃げた先はこの道場の中と思ったがそうでなく、別邸のお蘭の部屋へ逃げ込んだのだ、
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