木兵馬がいました。
 この間の晩、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百はここでとんでもない人違いをして大失策《おおしくじり》をやらかしたが、今晩のこの場は全く人違いではありません。まさに訪ねようと求めて来た人が、註文通りそこにおり、待つ方の人も、声によって予定通りの人柄がそこに現われたのですから、これからの行動も、註文通りにはまって行かねばならぬ筋合いになりました。
 しかし、ここまで来たお蘭さんが、急にテレ切って立場を失った様子は、笑止千万というよりほかはありません。
 宇津木兵馬が生真面目《きまじめ》にキチンと蒲団の上に座を正し、一刀を膝へ引寄せて待構えている形を見て、飛びつくことも、飛びのくこともできなかったからです。
 兵馬の姿勢は整然たるものでした。もし、もう少し時間の余裕があったら、袴を着けていたかも知れません。
「お帰りなさい、一刻お帰りが遅ければ、取返しのならぬ疑いを受けてしまいます」
「いいえ、大丈夫」
と、お蘭さんはすましたものです。
「いけません、早くお引取り下さい、お引取り下さらなければ、こちらにも了見《りょうけん》がございますぞ」
「そんなに生一本におっしゃる
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