たものです。
「宇津木さん」
 ほんとうに魅惑的なささやき。
 中では返事がない。
「兵馬さん」
 甘ったるい、なまめいた小声。
 でも返事がない。
「入ってもよくって?」
 コトコトと二つばかり、障子を極めて軽やかに叩きました。
 でもやっぱり手答えがない。
「入りますよ」
 障子をスラリと細目にあけて、まだ侵入はしないで中をそっと覗《のぞ》き込んだものです。
 返事はないけれども、中に人のいる証拠には、有明の行燈《あんどん》が細目に点《つ》いている。
 が、その行燈の麓は屏風で囲まれているから、細目にあけて見ただけでは、中の様子はいっこう知れようはずがない。
 そこで、今度は軽く廊下で足踏みを二つ三つしてみせて、
「今晩は……」
 それで、ようやく気がついたのか、中では寝返りをするような蒲団《ふとん》の音。もうたまらず、
「お目ざめ……」
 そこでお蘭さんがずっと座敷へ入りこんでしまって、同時に手を後ろへ廻してわれと入口の障子を閉してしまいました。
 そうして、さやさやと衣裳を引きずりながら、立て廻した屏風を廻り込んで、
「御免下さいまし」
 屏風をめぐって見ると、果してそこに宇津
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