たら、おっしゃって下さい、わたしも一生懸命見ていますから」
 お銀様は、小さな尼の頼みと、その口から父の人相の説明を聞いて、なんとなく刺されるようなものを感ぜずにはおられませんでした。
 ことに、顔面に大きな創を持った小柄の色の黒い男――小柄の色の黒い男だけではたずね人の目安にならないが、額から頬にかけて大きな創を持ったという男は、そうザラにあるものではない、それは見違えようとしても見違えられない特徴。
 人に顔を見られることを厭《いと》うお銀様は、同時に人の顔を見ることをも嫌いましたけれど、この偶然の場合では、頼みを聞いてやるやらないに拘らず、ここに立っている以上は、人の顔を注視してあらためなければならぬ役目を遁《のが》れられないもののようになる。
 船は確実に到着して、甲板の拍子木、やがておもちゃ箱をひっくり返したような人出、波止場を上る東海道中諸国往来風俗図絵――
 薬籠《やくろう》を一僕に荷わせたお医者。
 二枚肩の長持。
 両がけの油箪《ゆたん》。
 箱屋を連れた芸妓が築地の楼へ褄《つま》を取って行く。
 御膳籠《ごぜんかご》につき当りそうな按摩さん。
 一文字笠に二本差した甲掛《こうがけ》草鞋《わらじ》の旅の武士。
 槍持に槍を持たせて従者あまた引連れたしかるべき身分の老士。
 鉄鉢の坊さんが二人づれ。
 油屋の小僧が火と共に一散に走る。
 杖に笠の伊勢詣りたくさん。
 気の抜けたぬけ参りの戻り。
 角兵衛獅子の一隊テレンテンツク。
 盤台を天秤《てんびん》にして勢いよく河岸へ走る土地の勇み。
 犬が盛んに走る。

         十二

 お銀様もそぞろに人を見ることの興味にかられていたが、その前後に、どちら附かずの妙な旅人が二人三人ずつ、この高燈籠《たかどうろう》の下へ寄って来て、今やお銀様と小さい尼が一心に前面の人を見ているその背後のあたり、しきりにこの高燈籠の構造を評判しておりました。
「この高燈籠は、犬山の成瀬様がお建てになったのだが、昔はこの燈籠のおかげで出船入船が助かりましたが、今は功徳のしるしだけで、実際に用いません」
「ははあ、これが名代《なだい》の成瀬様の高燈籠……」
「二代の隼人正様《はやとのしょうさま》が正成公《まさなりこう》の御遺命によってお建てになったのです、寛永二年の昔」
「なんにしても結構な思召《おぼしめ》しだ、ここにその謂《いわ》れが刻んである、依二[#「二」は返り点]于亡父成瀬隼人正藤原正成遺命一[#「一」は返り点]而正房所二[#「二」は返り点]営建一[#「一」は返り点]也、并寄二[#「二」は返り点]五十畝之田地於太子堂一[#「一」は返り点]以為二[#「二」は返り点]膏油之資一[#「一」は返り点]、と読みますかな」
「その通り、燈明料としては須賀の浦の太子堂へ田地を御寄附になったが、今はそれが神戸町《ごうどまち》の宝勝院の方へ引移されている」
 こんな会話を交わしながら、古碑でも探る気持で、燈台の石垣を撫でまわしているのが、この際、お銀様の耳障《みみざわ》りになりました。
 桑名戻りの船が着いたとあってみれば、今も言う通り、乗込みを争うわけでもなく、到着を待ちわびる人でなくても、下船して来る旅人の上陸ぶりに好奇の目を向けて見るのが通常の人情であるのに、このやからは一向その方に頓着なしに、燈籠のある部分を撫でてみては頻《しき》りにその故事来歴なんぞを説明していることがキザだと、お銀様のカンにさわったのでしょう。その途端のこと、
「あ、お父《とっ》さん!」
と小さい尼が叫びました。狂喜の声のうちにも高い叫びを慎《つつし》んだもののようですが、その声でお銀様も改めて人混みの中を見渡したけれども、急にそれらしいものを認めることができませんでした。
 何とならば、唯一の目標とするのは、その顔面の大きな創《きず》ではありといえ、それほどの創を持つ人が、自慢で見せて歩くとも思われない、よし自慢にすべき向う創であっても、そこは道中のこと、笠もあれば、頭巾もあろうというもの、どれをそれと小さな尼が呼んだのか、お銀様には分りませんでしたが、心走りに走り出した小さな尼が、
「お父さん――」
 ついに一人の男の人をこの子がとらえてしまいました。見れば、なるほど、小柄で、そうして背が低いには違いないが、その身体《からだ》は桐油《とうゆ》の合羽《かっぱ》でキリリと包んでいるし、質素な竹の笠をかぶり、尋常な足ごしらえをしているものですから、お銀様に先手《せんて》の打てようはずがありませんでした。
 しかし、この幼尼からとらえられた時に、笠と合羽の主は、ハッと物に打たれたように向き直って見た瞬間、お銀様も、確かに、その人相を見てとりました。厳しい顔であると思いました。厳しいというのは、その尋常な田舎老爺《いな
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