屋人への面目のためであり、武術の神聖を冒涜《ぼうとく》するやからへの見せしめであると、米友は、ここに覚悟の臍《ほぞ》を固めましたが、その文字の上に現わされた似顔絵を見ると、米友が泣いていいか、怒っていいかわからない心持になったのも無理はありません。
「なあんだ、らっきょう[#「らっきょう」に傍点]か」

         十七

 その翌日、米友は例によって弁当を背負い込み、富士見原は目をつぶって素通りして、津田の別荘へ馳け込んで、実《み》のある弁当を抛《ほう》り込み、カラになったやつをその風呂敷に引包んで帰ろうとする挙動が、いつもよりはあわただしいものです。
 それはすなわち、今日はひとつあの武芸大会の小屋へねじ込んで、安直と、金十郎らに目に物見せてくれようとの決心があるからです。
 その物音を聞きつけて、今までは、発明の補導に熱中していた道庵が、今日は珍しく面《かお》を出して、
「おいおい、友兄いや」
「うむ」
「うむ――はいけねえよ、あい[#「あい」に傍点]とかはい[#「はい」に傍点]とか言いな。それから友様、今日はゆっくりしておいで、いいものを見せてあげるからな」
「あっ!」
と米友が舌を捲きました。毎日こうして弁当を運ぶのに御苦労さま一つ言いもしないくせに、今日に限ってよけいのことを言うのは天邪鬼《あまのじゃく》がのり移ったのだ! と米友が舌を捲いたにかかわらず、その辺に一向御推察のない道庵先生、
「今日はな、友様、気晴らしに面白いものを見せて進ぜるから、ゆっくりしな」
「あっ!」
「何だい、そりゃ、めだかが麩《ふ》をかじるように、あっ! あっ!」
 道庵が、米友の迷惑がる表情の真似《まね》をしました。
「先生、今日は……」
「今日は、どうしたんだい、いつもお前に弁当を運ばせてばっかりいて気の毒だから、今日はわしがオゴるんだよ」
「先生、オゴってもらうのは有難えが、明日にしてもらうわけにはいかねえかね」
「おや、せっかく人がオゴるというのに、一日延期を申し入れるというのはどうしたもんだ」
「先生、今日はおいらの方にも少し都合があるんでね」
「お前の都合なんざあ、どうでもいいよ、こっちにはちゃんとお約束があるんだから」
「だって……」
「グズグズ言うなッ……」
 道庵先生が大喝《だいかつ》一声しました。米友が眼を円くしていると、
「まあ驚くな、実は友様、こういうわけなんだ、ついこの隣地の富士見原というところへ、こんど天下無双の武芸者が乗込んだのだよ――そいつをひとつお前をつれて、見物に行こうと、津田君と二人で、もうちゃんと打合せをして、桟敷が取ってあるんだから、いやのおうのは言わせねえ」
「有難え、そこだ、先生」
 米友が急にハズンだので、道庵が我が意を得たりと喜びました。
「どうだ、武芸と聞いちゃ、こてえられめえ」
「本当のことは、先生、おいらも一人で、これから見に行こうと思ったのだ」
「そうだろう……は、は、は」
 道庵が得意になってヤニさがっているが、米友としては偶然、この人たちと一緒に席を取って見物させてもらうのはいいが、それにしても少々気がかりなのは、この先生が武芸見物中、どう気が立って脱線しないものでもない、感激性の強いわが道庵先生は、軽井沢で当りを取って以来、いい気になって武芸者になりすまし、その後松本では百姓に限るといって頭髪を下ろして百姓になってしまい、今は後悔しきっているではないか、今度また、あんなイカモノを見せた日には、何をされるか知れたものではない、という心配が湧いて来たからです。
 しかしまた、この先生は、脱線もするにはするけれども、物を見破るには妙を得ているところの先生である。もとより、人の病気を見破る商売をしているのだから不思議はないが、それにしても見破ることは名人だ。早い話が、自分が両国橋で黒ん坊にされて、江戸中の人気を集めていた時分、誰ひとりそれを怪しむものはなかったのに、この先生だけには立派に見破られてしまった。
 脱線はこわいが、イカモノ退治には、こういう見破りの上手な先生と一緒に行ってもらった方が、たしかに利益に相違ないということを、この際、米友が気がついたものですから、
「まあ、いいや」
と言いました。
 そこで、道庵と米友と、新しく別に研究生の津田生が加わって三人、程遠からぬところの富士見原の評判の武芸大会なるものを見物に出かけました。
 ほどなくその場に着いて見ると、人は多く集まっているが、なんだかその空気が変です。
 あの前景気で行くと、今日の初日は、もっと緊張した人気がなければならないと思われるにも拘らず、あたりの空気がなんとなくだらしがないので、変に思いながら表へ廻って見ると、幾多の人があんぐりと口をあいて見上げている大きな貼札――
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