ったような次第でございまして、たとえ、お雪ちゃんという子が山一重あなたにおりましても、今のわたくしのこの身体では、その山一つを越すのが堪えられますまいと案じられるのでございます。こんなに申しますと、弁信、お前は口ほどにもない意気地なしだな、さきほど玄奘三蔵《げんじょうさんぞう》渡天の苦しみがどうの、なあに、同じ日本の国の信濃の国内がどうのと広言を吐いたそれがどうしたと、斯様《かよう》にお叱りを蒙《こうむ》るかも知れませんが、それはそれでございまして、お湯につかりましてから、わたくしが、全くぐったりと疲れが一時に出てまいりましたことは事実でございます。だが、御安心下さいませ、この疲れは困憊《こんぱい》の疲れというわけではございません、安息の疲れなのでございます。わたくしは行こうと思いますと、いかに病身の身でも行くべき路をさらさら厭《いと》いは致しませんけれど、今は休みたいのでございます。お雪ちゃんの身がどうありましょうとも、皆様を先立て、わたくしが控えておりまして、お義理を欠こうとも欠きますまいとも、わたくしは今日は休みたいのでございます、明日もここで休んでいたいのでございます。あさってのところはどうなるかわかりませんが――今のわたくしの気持は、何事を措《お》いても、ここで暫く休ませて置いていただきたいことのほかにはございません。隣国と申しましても、飛騨の高山まではかなりの道でございましょう、ましてこの大雪でございます、それは品右衛門爺さんが案内をし、屈強な北原さんと、お気の練れた久助さんとがお道連れですから、少しも心配はないようなものの、それでも時候|外《はず》れの今の時に、人の通わぬ山路を御出立なさるのはなんぼう御苦労なことでございましょうか。それをわたくしらがここにいて充分に休みたいなんぞとは申し上げられた義理ではないのでございますが、なぜかわたくしはここで思う存分、三日の間休ませていただきたい気分がしてなりませぬ。北原様、品右衛門爺様――それと久助さん、どうか右のところを悪《あ》しからず御承知くださいませ。ではお頼み申します、ずいぶん御無事に、わたくしが念じおります」
 一息にこれだけのことを言いましたから、一座がまた口をあいてしまいました。なんというおしゃべり坊主、なんというませ[#「ませ」に傍点]た口上の利《き》きぶりだろうと――弁信の顔を見たままでいると
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