て、その翌日早く、今度は本式に名古屋を出立することに決めてしまいました。
 少なくとも飛行機の試乗が済むまでは御輿《みこし》が据わったものと諦《あきら》めていた米友も、足許から鳥が飛び立つように感じたけれども、そこは慣れたものであるし、且つまた先刻、旅の用意済みでしたから、この不時出立の命令にも更に狼狽《ろうばい》することはなく、即日、つまり命令のあった翌日の朝未明に、今度は急角度の転向転換などということはなく、道庵自身もさきに立って、いざ鹿島立ちという時に、道庵が容《かたち》を改めて米友に向っていうようは、
「時に、友様、わしは今までお前に向って隠していたが、実は敵持《かたきも》ちの身なんだ」
 米友は、変な面《かお》をしてそれを聞きました。敵持ちといえば、つまり自分が何か人の意趣遺恨を受けて、敵に覘《ねら》われているということになるのだが、今までそういうことを聞いたこともなし、左様な警戒を試みていたこともないのに、不意に妙なことを言い出されたものかなと感心したのです。
 しかし、道庵先生が急に妙なことを言い出すのは、今朝にはじまったことではないが、今朝は少し生真面目ではあり、出立間際ではあったから、米友も特別に変な面をして耳を傾けていると、道庵が言うことには、
「実は、今までお前にも打明けなかったが、この道庵も花盛りの時、武士道のやみ難き意気地によって、朋輩二三名を右と左に斬って捨てて国許を立退いたものだ」
 始まった! こんなことを本気で聞いていちゃたまらねえ――米友が舌を捲いているに頓着なく、道庵は生真面目で続けました。
 それを聞いていると、道庵は若気の至り、右の次第で両三名の武士を右と左に斬って落し国許を立退いたが、その子弟が絶えず自身の首を覘っている。いつ途中で敵にめぐりあい、名乗りかけられないとも限らないのだから、その時卑怯な真似《まね》はしたくない。実は今朝も出立にあたって、なんとなく胸騒ぎがするのは、虫が知らすというものかも知れねえ。万一そういうことがあった時は、友様、お前にも一つ頼みがあるのだ。
 その頼みというのは、軽井沢の時は、場合が場合だから、お前の助太刀《すけだち》で難を遁《のが》れたが、いつも道庵は、用心棒がなければ独《ひと》り太刀が使えねえということに見られると名折れだから、今度、途中で万が一、いかなる狼藉者《ろうぜきもの》が現われ
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