この代官屋敷へ連れ込んだということは、大抵知れ渡っていることだから、その出来事は隠すことはできませんでしたが、その若い娘の方には、あまり人の注意が向かなかったものですから、兵馬は極めて無事に、その娘を自分の部屋に隠し、且つ、休ませて置くことができました。
最後に、内外を合わせて陰に陽に手を尽して探った一つの報告として、昨夜であったか、今晩であったか、大井の四辻の駕籠屋へ、お代官からと言って二梃の駕籠を註文した者があるが、その駕籠が、今もって戻って来ない――ということを聞き込んで来た者がある。
大火についで農兵の調練、それにこのたびのすさまじい恐怖――小さな天地の動揺はようやく静まらず、人心|恟々《きょうきょう》として真相に迷うの雲が深い。
三十八
事態かくの如くであるに拘《かかわ》らず、弁信法師はまだ白骨の温泉に眠っているし、救援に出向いて来た北原と、品右衛門と、久助との一行はどうしている。
しかし、この一行の途中の変事というのも、そう心配するほどのことでなくて何よりでした。
それは、白骨から平湯へ出るまでの途中のある地点で、北原が岩角から足を辷《すべ》らしたまでのことです。足場が悪かったので、小石が流れる、それに足を浚《さら》われた北原は、ほとんどとめどもなく谷底へ落ちようとして、足に力を入れた途端、手の方がゆるんだものか、また、その際気がかりになって、自身の流れる身体で押し潰《つぶ》してはならないから、放ってやったのか、携帯の鳩が飛び出してしまいました。
それと共に、ずるずるととめどもなく谷底へ落ちて行く、それを見て久助は、あれよ、あれよと言うばかりですが、品右衛門は早速用意の縄を投げてやったものですが、悪い時は悪いもので、それにつかまりはつかまったが、縄が途中で摺《す》りきれて、もう万事休すと思われた時に、幸いに木の根に、しっかりかじりついて叫んでいる。そこで、つぎ足しの縄が来てようやく引きあげたのですが、もとより生命には別状はないが、足をくじいたり、擦《す》り剥《む》いたり、かなりの怪我をしているから、品右衛門が背中に背負って、そうして平湯へ来て療治を加えているという出来事でした。
出来事としては怪我の部類ですけれども、鳩が逃げて白骨へ時ならぬ逆戻りをしたということと、これから前途、高山までの強行前進が利《き》かなくなった
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