も、買うものも、みんな恐れ入ってしまった。大抵は土下座をきって静まり返ってしまいましたが、お雪ちゃんはどうも土下座をする気にもなれず、そうかといってうろうろしてもいられないから、乾物屋のうしろに小さくなっていると、巡検のお代官がその前へやって来たのです。
 新お代官というのは、赤ら顔のでっぷり太った男で、向う創《きず》まであるが、お代官としては存外、磊落《らいらく》な性質と見え、大声で附添の者と笑い話をしながらやって来る。実はこの公設市場は、お代官として得意な施政の一つなので、この非常の際の買占め、売惜みを防ぐものに、逸早《いちはや》く官権の手で日常物価の公平を保つ機関を作り上げた、成績がなかなかいいという報告を聞いたものだから、この際、実地検分に来たものと見えます。
 事実、この新お代官なるものは、ずいぶんと悪い噂《うわさ》もあるが、またなかなかの苦労人と思われるところもあり(前身はなんでもバクチ打ちの経歴まであるということ)したがって型破りの手腕を見せることがないではない。現にこの公設市場なんぞは、たしかに悪いやりかたではなく、物価政策の機先を制したなんぞは、たしかに月並みのお代官にはできない働きだと賞《ほ》める者もあるくらい。
 そこで、大得意で巡検してお雪ちゃんのいる乾物屋の前まで来ましたが、お雪ちゃんは直ちに、このお代官様は少々酔っていらっしゃると感じました。本来得意のところへ、一杯機嫌でしたから、怖いものの元締になっているお代官が、開けっ放しの心安いものに見えないではありません。
 笠は取りたくはないが、被《かぶ》っているわけにはゆかないから、取外してお雪ちゃんが頭を下げていると、それが早くもお代官のお目にとまったようです。
 いったい、悪い領主やお代官には、自分の女房や娘は滅多に見せるものではないのです。慣れたものは大抵そのへんは心得ているが、お雪ちゃんはあらかじめ、そんな気兼ねを置くの余裕もなにもなくして出て来たのですが、笠で隠していれば何のこともなかったのですけれど、こうして笠を取ってみると、その衣裳と面立《おもだ》ちとはどうしても釣合わないことが、この際、誰にも認められることになるのはやむを得ませんでした。
 そこで新お代官は、お雪ちゃんの前でちょっと足を止めました。
「お前はこの店の掛りかい」
 不意に言葉をかけられたので、お雪ちゃんはうろたえ
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