岳の裾山を過ぎるに、身重《みおも》にあれば歩むさへ、おのれが思ふにまかせざりけん、そのあたりに足踏みすべらし、谷間へ深く落ちいりしが、不思議に身持を破らざれば、いかにもして登らばやと、打仰ぎて上を見るに、四方に岩の覆ひ重なり、昼なほ暗き深谷の底、ことには雪の降りうづみ、更に登らんよしなければ頻《しき》りに悲しみもだえつつ、ここかしこ見まはせば、横の方に大洞《おほあな》ありて、奥より出で来るもの見えたり、荒栲《あらたへ》ふたたび驚き怖れ、ひとみを定めてこれを見ると、丈《たけ》抜群の熊なりければ、さてわが身はこれがために、命を取らるるものよと思へど、いかにもせんすべなければ、心のうちに思案なし、けものは人の物言ふをわきまへべきやうはなけれど、懐妊の身のかかる難儀を告げて命を乞うてみばや、その上にて聞きわけずばそれまでよと思ひさだめ、進み近づく熊の前に跪《ひざまづ》き、涙を流して、かかるところに落ちいりしは、わが身のなせしあやまちなれば、よしやそなたに噛まるるとも、恨む心はさらさらなけれど、ただ恐ろしきは、みごもりて早や五月になる身故、宿せしみづ子のあさましや、この世に出づる日もあらで……」
[#ここで字下げ終わり]
「ここで次へとなっておりますのよ。この文章の間に絵がありますの、わたしの描いた絵を見せてあげたいけれど、口で言ってみますと、左の方に猟師の度九郎が炉へ焚火をしながら、縮《ちぢみ》を売りに行く女房の荒栲《あらたえ》を見返っておりますのよ。女房の荒栲は、縮を小腋《こわき》に当てて、右の手には竹笠を持って、蓑《みの》を着て外へ出て行こうとしているところを描いてあります。住居は越後の山の中の猟師ですね、壁には鼬鼠《いたち》のようなのが一匹と、狸かなにかの剥いだ皮が吊してあります、鉄砲も一梃立てかけてあります――この二人の夫婦の悪党が、それからが大変なのです」
 この仕事は、実にお雪ちゃんのためにも、二重にも三重にも興味と実益とを与えたものでした。
 第一、お雪ちゃんは、これによって、生活と関連した仕事の興味を覚えると共に、仕事そのものが自分の好きな道とぴったり来ていることの興味が集中し、それから仕上げた仕事を竜之助に報告し、その内容を読んで聞かせたり、話にしたりすることによって、自分も満足を感じ、相手を慰め得ることにもなる、すべてにこんな異常な力を感じたことは近来に
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