無想の境を作ろうとしているのか、とにもかくにも暫くの間、黙坐をしていた弁信は、やがて帯を解き、緇衣《しい》を解いて衣桁《いこう》にかけ、それからさぐりさぐりに、夜具に向って合掌した後に、軽やかに、その中にくるまって、左の脇を下にして横になり、その法然頭をくくり枕の上に落しました。
そうして、彼は今、すやすやと思い入りの快眠に耽《ふけ》ろうとしているのです。弁信の言うところによると、今夜ここに寝通すのみならず、明日も、明後日も――少なくとも三日の間はわたくしを起さないで、寝かせて置いて下さい、湯水のお世話もなにも要りません、三日の間は死んだものと思召《おぼしめ》して、ぐっすりと休ませていただきます――というようなことを、さいぜんも言っていたから、これから有らん限りのものを忘れての眠り三昧《ざんまい》の境地に入ろうとしているその瞬間です、悪い奴が出て来ました。
「弁信さん、よくおいでなさいました、ほんとうに、お待ち申していましたよ、寒くはございませんか、さだめてお退屈だろうと思いまして、お伽《とぎ》にあがりましたよ、わたしですよ」
弁信のためには必要ではないが、部屋の調度の均整のためには、ぜひなくてはならない、例の角行燈《かくあんどん》のほくち箱の中から出て来たものがあります。
「どなたですか」
「はい、わたしですよ、ピグミーでございますよ」
ああ、ピグミーだ、こんな奴は出て来なくてもいいのである。誰しも出て来ない方を希望するのに拘らず、目の見えない人か、目は見えても眠っている人のところへは、必ずなれなれしく出て来る。
「ピグミーさんですか」
「はい、ピグミーでございます、いつぞやは失礼いたしました、今晩はあなたがまた、これへおいでなさることを知っておりましたから、ちょっと先廻りして、ほくち箱の中へと身を忍ばせてお待ち申しておりましたところです、お寒くもあり、おさびしくもあろうと存じまして、お伽にまいりました、今晩は夜っぴてお話をしようじゃありませんか、あなたもお喋《しゃべ》りがお好きでいらっしゃるが、わたくしだってその気になれば、ずいぶんお相手ができようというものです――今晩はゆっくり話しましょう、夜っぴてお話ししましょう」
「いけません、今晩は、わたしは休むのです」
「そんなことをおっしゃっちゃいけませんよ、ピグミーに恥をかかせるものじゃありません」
「今晩は
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