話半ばで、そのことを言ってしまったのです。そこで一同が、なんとなくぞっ[#「ぞっ」に傍点]としました。
「誰だい」
「ええ、わたくしでございます、夜分おそくなって相済みませんが」
「わたくし……と言ったって誰だね」
一同は不審です。この夜中に、このところへ、外から来るべき者の予想は全くなかったことで、内から出て行って、戻って来たという面《かお》ぶれの欠員もなかったからです。そこで、さすがに一同は、ゾッとしていると、弁信が抜からぬ面で言いました、
「あ、あれは久助さんですよ」
「ええ」
「久助さんが来たのです」
「久助さんが?」
一同は、外の久助なる者のために戸をあけてやるよりは、内なる弁信の面を、見直さないわけにはゆきません。
そのわけは、久助はたとえ夜中に、不意にやって来たとはいえ、この連中にとって、充分に予備知識のある名前ですけれども、ここへ、風来に飛び込んで来たこの小坊主が、どうして久助の名を知っている?
名を知ることはとにかく、まだおとなわない先から、人の来ることを予期し、面を見ないうちから、その人の名を呼び、しかも、その人の名の呼びっぷりが、自分たちよりも、一層も二層も昔なじみであるらしい呼び方をするために、この小坊主が一時は、妖怪変化の身でもありはしないかとさえ、物すさまじく感じたからです。
それにもかかわらず弁信は、いよいよ心得たもので、
「間違いありません、久助さんに間違いありませんから、どうぞ、どなたか戸をあけてあげてくださいませ。何か、やむにやまれぬ用事があればこそ、夜分、こうして出て参ったのでございましょう……わたくしも、久しぶりで久助さんに逢って、積るお話をお聴き申さなければなりません……」
底本:「大菩薩峠13」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年6月24日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 七」筑摩書房
1976(昭和51)年6月20日初版発行
「大菩薩峠 八」筑摩書房
1976(昭和51)年6月20日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年1月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全33ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング