の形というものが、神秘を開いて、お雪ちゃんに、おいでおいでをしているから、お雪ちゃんとしては、自分の故郷へ帰るような気持になって、あの白山の山のふところにこそ、自分の生涯を托する安楽な棲処《すみか》があるものだと思われてならないのらしい。
 白川の流れも、白水の瀑《たき》も、白川温泉も、それから太古さながらの桃源の理想郷、平家の御所をそのまま移した平安朝の鷹揚《おうよう》な生活が、あの白山の麓《ふもと》のいずれかに現存しているような気がしてならないのです。
 ああ白山――とお雪ちゃんは、子供のように、手桶を置いたまま、その白山山脈の姿に見惚《みと》れて、動けないのです。
 白山の白水谷を渡る時には、籠《かご》の渡しというものがある。藤蔓《ふじづる》を長くあちらとこちらとにかけ渡し、それに同じく藤蔓を編んだ籠を下げ、人一人ずつを乗せて、この岸よりかの岸に引渡す。岸と岸の間は、鳥も通わぬ断崖絶壁で、その下は、めくるめくばかりの深谷を、白水が泡を噛《か》んでいる。
 白山へ行くには、白水を渡らなければならない。白水を渡るには、籠の渡しよりほかは術《すべ》がない。
 昔、悪源太義平に愛せられていた八重菊、八重里の二人の姉妹が、悪源太が捕われてのち、越中へ逃げようとして、その籠の渡しにかかったが、追手が前後から迫ったので、ついに、その籠を我と我が手で切り落して千仞《せんじん》の谷、底知れずの白水の谷に落ちて死んだ――というような伝説。
 怖いもの見たさの憧れから、お雪ちゃんは、もう今から、籠の渡しに乗ることに胸をとどろかせている。
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白山よ
白水谷よ
白水谷を渡る籠の渡しよ
安らかに、われらを渡せ
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         七十

 それから一通り流しもとを済ましてから、お雪ちゃんは、座敷へ戻って見ると、まず目についたのは、衣桁《いこう》にかけっぱなしになっていた、一重ねの小紋縮緬です。
 それを見ると、お雪ちゃんは、またも、どうしても、逃れられないものがあるような気分に捉われてしまいました。
 あの一重ねは、見るも浅ましいので、焼いてしまおうとして焼き損ねた品、舟からここへ越す時に捨てねばならないはずであったのが、捨てかねたのか、捨てそこねたのか、自分には分らないが、とにかく、ここへ持って来た僅かの荷物の中に、あの一重ねがあったのです。
 それを、縁側へ出して置くと目にとまり、座敷へ投げて置くと目にちらつくものですから、戸棚へ入れましたが、それでも鼠が心配になったのか、とうとうまた衣桁へかけて置くほかに、せん術《すべ》がないようになって、もうこの座敷へ入る早々、眼につくという始末です。
 お雪ちゃんは諦《あきら》めました。こうまでついて廻るのは、これも因縁というものに違いない、あのおばさんが、わたしの傍にいたいとの心持があって、この着物にその心持が乗り移っているとすれば、粗末にもならないじゃありませんか。
 イヤなおばさん――と通り名にはなっているが、よくよく考えてみると、イヤなおばさんのイヤな所以《ゆえん》が、お雪ちゃんにはわからなくなってしまうので、ややもすれば、いいおばさん、気の毒なおばさん、かわいそうなおばさんにまでなってくるのです。よく世間では、坊主がにくければ袈裟《けさ》まで憎い、と言うが、よしイヤなおばさんが、イヤなおばさんであるとしても、その記念《かたみ》の着物までを、イヤがるわけはないじゃないの。
 着物に罪は有りはしないわ――というようにお雪ちゃんの心が知らず識《し》らず変化していましたから、その心が、この着物を焼くこともせず、捨てることもせず、着物の方でもまた、お雪ちゃんの傍にいたいと、声を出しているようにも思われるのです。
 最初、目をつぶって見まいとした、このイヤなおばさんの記念《かたみ》が、今ではお雪ちゃんにとって、なんともいわれない懐かしみを、にじみ出させてくるようになりつつあるらしい。
 衣桁にかけた小紋縮緬の一重ねを、こんな心持で、お雪ちゃんはしみじみと眺めていましたが、同時に自分の着物を見て、悲しいという感じも手伝いました。昨日まで寝巻のまんまでいたけれども、ここへ来て、お寺の心尽しで、娘らしい一通りの借着を着せてもらっているけれども、焼かれたのがほんの一重ねだけでもあれば……と思いやられるところへ、このイヤなおばさんの記念ばっかりは、仕立卸し同様に、こんなにしてわたしの眼の前にある。あのおばさんも言った、これは私には派手過ぎる、あとから代りが届いたら、お雪ちゃんにあげましょう――それは冗談ではなく、本心の約束のようなものでした。事実、お雪ちゃんは、このまま自分が着ても、そんなに不釣合いのものじゃないと思いました。
 わたし、これを着るわ、着てみるわ、というところへ進んで、お雪ちゃんの心が怪しくなって、衣桁に手をかけてみましたが、その手を自分の帯の方へ取替えて、帯を解き、着物を脱いで、とうとうイヤなおばさんの記念《かたみ》の縮緬の着物を、すっかり着こなしてしまいました。
 イヤなおばさんでも、怖いおばさんでもなくなってしまいました。
 こうして着こなしてみると、お雪ちゃんはなんとなくそわそわした気持になって、誰かに見せたい――というようなそぞろ心から、竜之助の居間へ行ってみる気になってしまいます。
 竜之助の居間へ行って見ると、竜之助は刀の手入れをしていました。
 落着きのある書院の、よい日当りを細骨の障子に受けて、あちら向きに刀の手入れしている竜之助。
 刀の手入れをなさることは、ちかごろに珍しいことだと思いましたが、それだけ気分が穏かに、環境が落着いているせいでしょう――と、お雪ちゃんはそれを喜び、そうしている竜之助の形を、よい形だと思いました。

         七十一

 武州沢井の机の家が、このごろ、急に物騒がしい空気に駆《か》られたように見えます。
 別に凶事があって、騒がしいというわけではないが、いつも、しんみりと落着いた一家の空気に、なんとなく一道の陽気が吹き入ったかのように見えるのです。
 第一、ここの女主人ともいうべきお松が、急にはしゃいだというわけではないが、なんとなく動揺を感じて、心が浮き立ち、何かここにもある時期に達したもののように見えます。
 それというのが、たしかに原因はあることなので、その原因というのは、さきごろ、房州方面へ行った七兵衛親爺が、立戻って来てから以来のことです。
 その晩、炉の前で、数え年|四歳《よっつ》になる郁太郎《いくたろう》を、その巨大な膝に抱きあげている与八に向って、お松が、こんなことを言いました、
「そういうわけですから、与八さん、この土地も惜しいけれども、この子供さんたちのために、どうしても、駒井の殿様のお船の方へみんなして移るのが、おたがいの幸福じゃないかと思います。この土地のことは、この土地のことで、みんな居ついている人で、わたしたちは尽すべきだけのことは尽し、おたがいに人情ずくで、多少の名残《なご》りはあるけれども、立退いたところで、人様に御迷惑をかけるようなことにはなっていないから、ここは、いっそ、わたしたちは駒井の殿様の方へうつり、殿様をたよったり、また殿様のお力になって上げたり、それがまたこの子供さんたちの将来の教育のためなんぞにも、どのくらいいいか知れないと思います。七兵衛おじさんなぞは、大へん喜んでいて、もう自分も船住まいの身分になれるなんて言ってます。わたしも、話を聞いてみると、全くわたしたちの救いの神様のお船じゃないかとしか思われません。渡しに船と言います通り、わたしたちが、ともかく、今迄あんまり悪いことばかりはしていなかったおかげで、こんなしあわせが迎えに来てくれたんじゃないかと思います。なんにしても、駒井の殿様を真中にして、なんにも今までの約束や、窮屈のない船の世界が出来て、世界のどこへでも落着いて暮せようというのですから、こんな結構なことはありません。海の外によい土地があれば、そこへ落着いてもいいし、また帰りたければ、手前物の船でいつでも日本の国へ戻れるのですから、まるで、世界中を自分の家とするような生活じゃありませんか……」
 お松が、お松としてはかなりハズンだ心持で言うのを、郁太郎を抱いた与八は、黙って物静かに聴いていたが、
「うむ、そうかな」
「でも、治めて行く人が悪い人では仕方がありません、悪い人でなくとも、気心の知れない人では、いくらすすめられたからといって、大海へ出る船なんぞへ乗れたものじゃありませんが、駒井の殿様のお船でしょう、それも、駒井の殿様が御自身で御工夫なすって出来上ったお船を、あの殿様が好きな人だけを乗せて、御自分が宰領《さいりょう》して御出帆になろうというのですから、こんな大丈夫のことはありませんね」
「うむ、それもそうだな」
「それにまた、この小さいお子たちだって、駒井の殿様のようなお方のお傍で、教育されて行けば、出世のためにも、どのくらい幸福だかわかりません」
「それも、そうだろうなあ」
「善は急げと言いますから、そう決心したら早くしましょうよ、なるべく早く仕度をして、お暇乞《いとまご》いをすべきところは早く済ませ、一日も早く房州へ行こうではありませんか。明日から、その仕度にとりかかりましょうね、与八さん」
「うむ――」
 与八は、じっと黙って、暫くの間、考え込んでいたようでしたが、
「うむ、それは結構な運が向いて来たのかも知れねえが、おいらは……わしには、少し考げえたことがあるからね」
 与八にこう言われて、お松が狼狽《ろうばい》しました。

         七十二

 いつも、お松の提言に不同意を唱えたことのない与八、お松が案を立て、与八が実行する。
 お松が、与八に相談なしにする仕事はあっても、与八から一応、お松の諒解《りょうかい》を求めないということはないことになっている。
 それに今晩のお松の提案は、今までの提案中の提案で、ここの生活に革命を生ずるとはいうものの、その革命は、生木を裂くようなものではなく、極めて多望満々たる好転である。すべてにとって、天来の福音であって、且つ、実行をして些《いささ》かの危なげのないことをお松が信じているから、それで、いつもよりは、一層の晴々しさをもって、与八に提言してみたのは、むろん与八も二つ返事と信じきっていたのに、今晩に限って、この最良最善の提言を、与八の口から、仮りにも不同意に類する言を聞いたのは、意外中の意外でありました。
 そこで、お松はしばらく文句がつげなかったのですが、やがて、
「どうして……どうして与八さん、どう考えたのです」
「どうしてって、お松さん、ほんとうに済まねえが、今の話に、おいらだけは別物にしてもらいてえのだが」
「別物にして、お前さん、それでは、わたしたちと一緒に、房州の駒井様のところへ行くのはいやなの?」
「いやというわけではねえが、少しわしにはわしだけの考げえがあるから、別にしてもらいてえ。といって、わしらのほかの者は、お松さんのいう通り、ほんとうにそれが渡しに船で、願ってもねえことだから、そのようになさるがいいだ、そのようにしなけりゃなりましねえ。わしらだけ別にしてもらいてえというのは、わしらには、その前から一つ願をかけたことがあるだあ」
「願をかけたって、それはどうしたことですか、何様へ、どんな願がけをしたのですか」
「いや、何様へ何をという、目に見えた話ではねえんだ、わしらは、いつかある時期を見て、日本中を歩いて一巡《ひとめぐ》りして来てえと思ってたでね」
「日本中を一巡りって、与八さん、一人でそんなことを……」
「一人じゃねえんだ、わしぁ、この郁太郎さんをおぶって、そうして、日本中の霊場巡りをして来てえものだと思って、ひとりで願をかけているのだから、その願を果さねえうちは、船で外国へ行く気にはなれねえのだから、ちょうどいい折だから、お松さんはみんなを連れて、その殿様のお船とやらへ行って下せえ、わしぁこれから廻国《かいこく》に出かける」
「まあ
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