の海岸を真一文字に、遠見の番所まで走《は》せ戻ったものです。
 番所まで一目散に走りつくと共に茂太郎は、まずこのことを、誰に向って語ろうかと案じわずらいました。
 駒井の殿様に申し上げるのが本当だろうけれども、殿様はまだ、マドロス君を許しておられないのだ。田山先生はいない、金椎君《キンツイくん》は話したって無益、どっちみち、お嬢様に話してみてからの上……そのお嬢様という人は、いま眠っているに違いないから、それを起すのも気の毒だ。
 そこで、茂太郎はまず、小使部屋へ飛び込んだ。見ると、そこの炉辺に、思いがけない人が一人いるのを認めました。
 キャンドルを入れた行燈《あんどん》が明るく、炉中の火も賑やかに燃え、大鉄瓶の湯もチンチンと沸《わ》いて、いずれも気持よく室中の気分が熟している中に、炉を前にして、お膳を置き、傾けつくしたと見える徳利を一本飾りこみ、悠然として、お茶漬を掻《か》きこんでいるところの一人を発見したものですから、茂太郎が、
「おや、おじさん、いつ帰ったの?」
「はい、もうちっと先に帰りましたよ」
「そう……」
 茂太郎はなんとも解《げ》せない面《かお》で、この悠々とお茶漬を掻込んでいる中老人の面を、しげしげと見やりました。
 それは、このごろ、ここへお客に来た、武州の田舎《いなか》の七兵衛というお爺さんだからです。
 そのお客さんだから、特に解せないというわけではない。お客さんに来ても、帰らない以上は、ここに泊っているのはあたりまえだし、泊っている以上は、お茶漬を食べることも不思議ではないが、茂太郎がどうしても不思議でたまらないので、しげしげと、この空《から》にした徳利を一本前へ飾りつけて、お茶漬を食べているお客様をながめたまま、引込みがつかないでいるのは、この人こそ、ついたった今、小舟の中で見た人だからです。
 マドロス君が櫓《ろ》を押して、このおじさんが舳《みよし》の方に坐って、そうして、こちらが呼べども知らん面に、造船所の方へ行ってしまったその舟の中で、たしかに見たこのおじさんがあのおじさんです。果して、このおじさんがあのおじさんであるとすれば、どこへあの舟をつけて、いつここまで来たのだろう。たとえば、あの時に、造船所の前へ舟を着けたとしても、それからこの番所までは相当の距離がある。走って来たとしても、相当息切れがしていなければならないのに、もう徳利を一本空にして、悠々とお茶漬を食べている。
 もし、舟の中のあのおじさんが、このおじさんでないとしたならば、ここにいるこのおじさんは誰だ?
 マドロス君と言い、この七兵衛と称するおじさんと言い、今日は実に、解しきれない変幻出没――さすがの茂太郎が当惑しきって、
「おじさん、いつここへ戻って来たの」
「たった今……」
「だって、お茶漬を食べているじゃないか」
「お腹がすいたから、いただいたのさ」
「だって……」
 この時、屋外が騒がしくなりました。

         八

 そっと窓を押して、二人が外を見ると、すぐ眼の下なる浜辺は、白昼の如くかがやいているのを認めました。
 それは、地上では盛んに焚火《たきび》をして、上には高張提灯を掲げ、何十人もの村民が、竹槍、蓆旗《むしろばた》の勢いで、そこに群がり、しきりに言い罵《ののし》って、この番所を睨《にら》み合っているのを見ます。
 さすがに、ひたひたと押寄せては来ないが、この番所に向っての示威運動であることは確かであります。
 そのうちに、大きな藁人形《わらにんぎょう》が二つ、群集の中に、こちらへ向けて、高く押立てられました。さながら弥次郎兵衛のように竹の大串にさして、突立てたのを、下に薪を積みはじめたところを見ると、この藁人形に火焙《ひあぶ》りの刑を施さんとするものらしい。
 その挙動によって察すると、彼等はマドロスを捕えて焼き殺すことに、何か失敗があったその腹癒《はらい》せか、そうでなければ、首尾よくマドロスに私刑を加え終って後、こうして駒井の番所近く、第二の示威として藁人形を焼き立てようとするものらしい。
 二人で、じっと見ていると、彼等は皆相当に昂奮しきっているようです。その昂奮に油をそそぐように、立廻っているのは、幾多のバクチ打と、ならず[#「ならず」に傍点]者の類《たぐい》と見える。
 やがて、藁人形の下に積み重ねた薪に火をつけると、火は勢いよく燃え上る。それと同時に、ドッと喚声が湧き上りました。
 この騒ぎでは多分、駒井甚三郎も目をさましたでしょう。兵部の娘のベッドの枕も、動かされたに相違ない。
 こちらの番所の中の人は、挙げてみんな、窓越しに、じっとこれを眺めているに相違ない。そこが、群集のつけめで、第一の藁人形にこうして火をつけると、第二の藁人形に火をつけて置いて、以前にも増した喚声を上げる。
 その火の色と、喚声とを聞きつけて、この場へ駈けつけるものは、一揆《いっき》の暴徒らしいやからのみでなく、浦の女子供も群がって来ること、爆竹《どんど》の祝いみたようなものです。
 こちらの番所では、ただ、静まり返って見ているだけですが、あちらでは、必死になっての示威運動です。
 口々に罵り騒ぐのを聞いていると、切支丹だとか、毛唐だとか、太え奴だ、国を取りに来やがった――とか、黒ん坊同様に一人残らず焼き殺せとか、番所も、船も、ブチ壊せとか、口を極めて、物騒千万な威嚇《いかく》を試みているが、威嚇しながらも、自分たちに相当の警戒があって、二の足を踏んでいるようでもあり、ついには、奮激の虚勢も、悪罵の言いぶりも、やや種切れの気味で、その時分に、鎮守《ちんじゅ》の社から下げて来たらしい太鼓が届くと、それを打鳴らし、やがて、この群集がおどり出しました。
 それは示威運動だか、お祭り騒ぎだか、わからなくなってしまっているうちに、押立てた高張提灯の一つに、どうしたハズミか、火がついてバッと燃え上ると、それを揉み消そうとして混乱が起ると、それのハズミで何か物争いが起ったようです。
 喧々として物争いをはじめたのは、仲間同士でした。
 それは、なんの原因だか分らないが、ホンの足を踏んだとか、踏まれたとか、手がさわったとか、さわらなかったとかいういきはりなんでしょう。やがて、すさまじい仲間同士の物争いになったのです。
 そこで取組み合いがはじまる、仲裁が出る、というおきまりで、こちらへ対するの示威はフッ飛んでしまい、仲間喧嘩に花が咲いて、その騒々しさ言うべくもない。
 こちらの番所で見ている者は、ここに至ると笑止千万《しょうしせんばん》に堪えられないでしょう。
 無論、駒井甚三郎も研究室のカーテンを掲げて、最初からこの形勢を見ていましたが、今し、仲間喧嘩が酣《たけな》わになったのを見て、カーテンを下ろしてしまい、またキャンドルを消してしまいました。

         九

 しばらくすると、扉をハタハタと叩くものがありますから、駒井が、
「お入りなさい」
と言いました。
「御免下さいまし」
と、いんぎんに現われたのは七兵衛です。
 七兵衛は、主人のほかに客用のものがある椅子へは、すすめても腰を下ろさないで、敷物の上へかしこまるのを例とします。ただ、手に一本の矢を持っていることが、いつもと違います。
「おお、七兵衛殿」
「只今は、随分お驚きになりましたでございましょう」
「少々、驚いたね」
「でも、あのくらいで納まってよろしうございました、どうやら、仲間喧嘩でもしでかした様子でございました」
「いや、本来、あの連中のやることは、根があってするわけではないのだから、たあいがない」
「でございますが、たしかにおだてる奴があるものですから、御油断はなりませぬ」
と言って七兵衛は、右の手に持っていたその矢を、駒井の方へ差出して、
「只今、小使部屋と、お廊下との間へ、こんなものを射込んだものがございました」
「ははあ、矢文《やぶみ》だな」
 駒井は、七兵衛の手渡す矢を受取って見ると、そこに結び封が結えつけてある。それを外《はず》して、くりひろげながら読んでいる。その読む時間を遠慮して、七兵衛は差出ることをしないでいたが、駒井は、さほど長くもあらぬ矢文をスラスラと読んでしまっても、別段、変った色なく、さっと、机の上へ投げ出したのをきっかけに、七兵衛が、
「おだてる奴があるものでございますから、御油断はなりません、万一のために、明日はひとつ、お船の方から人を呼んで、この御番所のまわりに、厳重な柵をお作りになってはいかがかと存じます、わたくしもお手伝いをいたしますから」
「用心にしくはないが、まあ、そうするまでには及ぶまい」
「しかし、うまくおだてられているんでございますから、調子によっては、何をしでかさないものでもございません。実は只今もああして、押しかけて来て、なんでも一気にこの御番所へ荒《あば》れこんで、火をつけてしまえ、ということだったそうでございますが、なかに、この御番所には大筒《おおづつ》がある、大筒をブッ放されてはたまらない、ということを言う者がございまして、そこで、あんな面当《つらあ》てだけにとどめたということでございますから、今後、また度々《たびたび》いたずらをするにきまっております、そうしますと、時のハズミで、ワーッとこれへ乱入して来ない限りはございません。そこで、塀なり、柵なりをかけて置けば、そこで必ず多少の遠慮をするにきまっておりまする――そうしているうちに、鉄砲の音の一つもさせてやれば、怖れてもう寄りつきは致しますまい、こちらから征伐も大人げのうございますが、籠城の用心だけはしておきませんと……それには、搦手《からめて》は大丈夫でございますが、海に向いた生田《いくた》の森が手薄でございます、早速、明日にも、あれへ柵をおかけになっておいた方が、安心でござります」
 七兵衛は、いんぎんにこう言って、駒井に進言をしてみましたが、駒井はそれを聞いて、頷《うなず》くだけで、
「たとえ黒幕があるにしても、おだてる奴があるにしてもだ、人気がこうなってはモウいかんな、斯様《かよう》な人気の中で、我々は安心して仕事をするわけにはゆかん。我々の仕事は、鉄条網を一方につくって、人民を敵視しながら、研究を続けて行かねばならん、という性質のものではないのだ。彼等はおだやかにあしらっても、威力を以てあしらってみても、どのみち、我々に対して、ああいう根本的の誤解が人気になった以上は、それを釈明するのは容易のことじゃない。不可能のことじゃないにしても、それを納得させる努力を、ほかで用いた方がよろしいから、結局――この地は、我々の方より一応退散した方が勝ちだ」

         十

 駒井甚三郎は、その時に矢文《やぶみ》の紙片を取って、七兵衛に読み聞かせました――
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「ソノ方事、江戸ヲ追放サレテ、当地ニ来タル仔細ハ、毛唐ニ渡リヲツケテ謀叛《むほん》ノ志アルコト分明ナリ、ヒソカニ軍艦ヲ製造シ大砲ヲ鋳造シテ毛唐ノ侵入ヲ待チ、事ヲ挙ゲテ、ワガ神国ヲ禽獣《きんじう》ノ徒ニ向ツテ奴隷トナサンコトヲ企ツ、言語道断ノ次第ナリ、シカノミナラズ、毛唐ノ無頼漢ヲ雇ヒテ、善良ナル村人ノ財物ヲ剽掠《へうりやく》セシメ、婦女ヲ犯サシメ、切支丹ヲ流行シ、禽獣ノ行ヒヲススメテ改メシメザルハ、一ニソノ方ノ責ナリ、ヨツテ近日中、汝トソノ一味ノ者ニ向ツテ天誅ヲ加ヘ、世ノミセシメトナスベシ、覚悟セヨ」
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 こういう文句が、かなり達筆に認められてあるのを、駒井は読み且つ見せて、七兵衛に向って言いました、
「ごらんなさい、文章は体をなさないものだが、文字は、なかなかよく書いてあります、この辺の浦の漁師たちなどに書ける文字ではないのです」
「神主様かなにか、お書きになったのでございますか」
「神主様と限ったものではあるまいが、こういう思想を煽《あお》って、無智の人民をけしかける者が志士といって、今の世には到るところに充満している」
「怪《け》しからんことじゃありませんか、そんな奴をひとつ、御退治なすっちゃあ、いかがでございます
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