、茂太郎は、声も、身体《からだ》も、震え上ってしまいました。
「マドロスが、焼かれているのかも知れない、たしかにそうだ、そんなような気がしてならない、そうだとすれば大変だ!」
ほとんど為《な》さん術《すべ》を知らないほどに動顛《どうてん》したらしい。
そこで、すっかり、空想も、幻想も、打ちこわされて、失神に近いほどの戦慄《せんりつ》と、恐怖を、如何《いかん》ともすることができないらしい。
というのは、今、あのマドロスが、村民の無頼漢の手に捕われている、そうして天神山へ連れて行かれて、今日明日のうちに焼き殺してしまうが、どうだいという、かけ合いがあったとか、なかったとか聞いていたが、それが本当であったか。
昨今、駒井の殿様を中心とする、この海辺の世界では、造船は着々と進行する、動力の研究までが目鼻がついてくる、働く人はみな殿様に心服している、やがて船が完成すれば、それに乗って行くべき人の人選も、ようやく定まりつつあるの時に、その周囲から、ようやく圧迫が出て来たことの形勢が、うすうすこの茂太郎にもわかっているのでした。
最初は、充分の好意と、好奇とを持って、駒井の新事業に便宜を計ってくれた附近の人が、このごろになって、険《けわ》しい見方をするようになったのは、たしかに黒幕があるのだ、と駒井の殿様も言った、それをお嬢さんが、またよく註釈して言って聞かせた、
「茂ちゃん、もう、昼間でも、うっかり外へ出るのをおよしよ、あぶないから。この近所の人は、漁師や、お百姓さんで、何も知らないけれど、うしろに黒幕があって、殿様の仕事を邪魔してやろうという空気が濃くなってきましたから、どうも今までのように安心しちゃいられないのよ。黒幕が、ばくち打[#「ばくち打」に傍点]を使ったり、ならず[#「ならず」に傍点]者をけし[#「けし」に傍点]かけたりして、殿様の仕事を妨害するんですからね」
「黒幕というのは何です、お嬢さん」
「それは土地の代官だとか、神主、坊さん、儒者といったような人たちだろうと思うんです」
「それが、ナゼ妨害するんだろう」
「つまり、この殿様のなさることが、わからないんですね。どうも、あれは、毛唐《けとう》の廻し者で、毛唐が黒船で日本を攻めて来る時に、こっちから裏切りをするために、ああして、軍艦や大砲をこしらえているんだ……なんて、けしかけているんですとさ」
「黒船がかエ」
「ええ、そこへもってきて、あのマドロスの奴が、だらしがないんでしょう、言葉がわからないし、あの面構《つらがま》えで、鶏を盗んだりなんかするもんだから、あれは切支丹《きりしたん》の、魔法使いの毛唐だと言ってるんですとさ」
「マドロス君もよくない!」
「よくはないけれども、そんな根強い悪人でもなんでもないのよ、たあいない男なのよ。それを憎んで、あいつを取捕《とっつか》まえて焼き殺してやれ、メリケンの国では、黒人《くろんぼ》を取捕まえると焼き殺してしまうんだから、日本でも毛唐を取捕まえて焼き殺したってかまわねえ……なんて、この頃中からマドロスを、土地のバクチ打や、ならず者が狙っていたんですとさ」
こんな話を、茂太郎は、兵部の娘から聞かされたのは、ここへ飛び出して来る、少し前のことでした。
マドロスがこの娘に対して暴行を働き、行方不明になっていたこと、それが一旦捕まって、村民のためにまたさらわれて行ったこと、それはもう少し以前のことでしたが、茂太郎も、マドロスにはもう多少の憎悪をさえ感じていたのだから、あんまり心配もしてやらないでいたのに、ここへ来て天神山の火を見ると、紅色をした鮮かな火焔の色と、スッテン童子の髪の毛とを思い出しました。
マドロス君も、いけないにはいけないが、焼き殺すというのはヒドい。焼き殺されるのは、全くかわいそうだ……
五
お嬢さんに対して働いた暴行は、憎いには憎いが、そうかといって、焼き殺さねばならぬほどに憎いとは思えない。
現に、再三、その暴行を蒙《こうむ》ったお嬢様自身すらが、それを許しているではないか。
駒井の殿様がああして、物置へマドロス君を抛《ほう》り込んで置いたのは、焼き殺しておしまいなさるつもりではない。再三のことで、あまりといえば許しておけないから、当座の懲《こら》しめのために相違ないのを、大勢がやって来て、担ぎ出し、それを天神山で焼き殺すということになっている。
村民たちに、そんな刑罰を行う権利が与えられているのか。タカが、マドロス君が飢《う》えに迫って、お櫃《ひつ》をかっぱらったとか、鶏を盗んだとかいう程度が、村民の蒙っていたすべての被害ではないか。それに向って私刑を加える――十や十五の叩き放しならまだしも、焼き殺してしまうというのは、それはあんまり酷《ひど》いや――
いやいや、マドロス君を村民が焼き殺してしまおうという理由はほかにある。それは、マドロス君が毛唐であるからだ。
毛唐というものは、つまり日本の国を取りに来るものだ。それだから、当代、二本差している憂国の志士はみな毛唐を斬りたがる。毛唐を一人でも斬れば斬るほど幅が利《き》く、まして毛唐に向って、戦《いくさ》をしかければしかけるほど、その大名の威勢があがる。
相州の生麦《なまむぎ》というところで、薩摩の侍が毛唐を斬って、それから、薩州様と毛唐とが戦争をした。長州でも負けない気になって、下関で毛唐と戦《いくさ》をした。これらの大名連は、毛唐と戦をするだけの勇気があるが、将軍様にはそれが無い――と言って、多くの人たちが歯噛《はが》みをしている。
だから、毛唐は殺すべきものだ。毛唐を殺せば殺すほど、侍としては勇者であり、国としては名誉である。そこで、この浦辺の漁民たちまでが、その気になっているのか。それでも、あたしには、それがわからないのですね。
あたしがつきあっているマドロス君は、眼の色こそ変っている、言葉こそ違っているが、やっぱり日本人と同じことの人情を備えている。人情の長所も備えているし、短所も備えている。この人は、あんまりエライ人ではない、ドコの国にもある、あたりまえの労働者だ。酒を呑みたがるのも無理はないし、飲めばむやみに女が好きになるところなんぞも、毛唐だから特別という廉《かど》はない。日本人だって大抵そんなものではないか。
毛唐は日本の国を取りに来た者だとは言うけれど、マドロス君一人では、日本の国が取れやしない、よし取ってみたって、一人じゃ背負《しょ》い切れまい。
毛唐だからとて憎まねばならぬという理窟は、どうも茂太郎にはわからない。
それならば、毛唐のうちのメリケン人は、黒人と見れば取捕《とっつか》まえて焼き殺すから、おれたちもメリケンを取捕まえて焼くのだ、というのも理窟にはならない。
いったい、人間同士というものは、そんなに憎み合わないでもいいじゃないの。そんなにおたがいにこわがらないでもいいじゃないか。人間はどうも物を怖がり過ぎていけない。獣や、虫なんぞでも、こちらが害心さえ無ければ、向うも大抵お友達気取りで来るものを、人間が彼等を怖れ過ぎるから、彼等もまた人間を怖れ過ぎる。
本来、この辺の浦人《うらびと》なんぞは、そんな惨酷なことをする人間ではなく、最初から、我々には好意を持っていてくれたものが、急にこんなになったのは、お嬢さんの言う通り、黒幕という奴がさせるのだろう。
黒幕が悪いのだ。
と、茂太郎はようやく黒幕へ持っていって、責任の帰するところを求めようとしました。
そんなら黒幕を外《はず》してしまいさえすれば、いいじゃないか。
六
黒幕を外してしまえ。
それは田山先生がいいだろう、田山先生は強いから、きっとその幕を外せるだろう。黒幕というのは一体、どこにどう張ってあるか知れないが、さがせばわかるに違いない。
それはそれとして、今眼前、焼き殺されようとするマドロス君がかわいそうだ――
茂太郎は、今になって、全くマドロスに同情してしまいました。立ちのぼる紅《くれない》の炎に、無限の恨みを寄せています。
その時に、左の一方は海ですから、絶えずザブリザブリと、寄せては返す仇波《あだなみ》が、月の色を砕いて、おきまりの金波銀波を漂わせつつ、極めて長閑《のどか》に打たせていたのですが、陸なる紅の炎を見ることに、心の全部を吸い取られた茂太郎は、今し、全く閑却していたその海の方を、あわただしく向き直りました。
それは彼の俊敏な五官の一つに響いて来たものの音、やや遠く近く、櫓拍子《ろびょうし》の音が、この海から聞え出したからです。
そこで、くるりと海の方へと向き直った茂太郎は、直ちに、程遠くもあらぬところに、一艘《いっそう》の小舟が櫓を押して通り過ぐるのを認めました。どうも、今時、この海を、岸づたいとは言いながら、あの小舟で乗りきることに、少々の意外さを感じながら、きっと闇を通して見たのは、その舟の中です。
茂太郎の眼は、たしかに異常です。異常なのは眼だけではありませんが、その眼は特別によく働く機能を授けられている。それにこのごろは、天文を見ること、星を数えることに、毎夜の如く慣らされているから、その感覚が一層精練されて来ているようです。
それですから、暗夜でも物を見るのは、さして苦としないのを、今夜は形《かた》の如き月夜ですから、眼の前を通る舟の中を見定めてしまうことは、なんでもありません。
「あ!」
そうして、ここでもまた、あっ! と驚かねばならないものを発見しました。
今、現に、櫓《ろ》を押しているその人は……それこそ、自分が現に極度の同情を寄せていたマドロス君その人ではないか。
そうしてまた一方、舳《みよし》の方に、もう一人いる。それとても別人ではない、昨今、遠方からここへお客に来ている七兵衛というおじさんではないか。
さしもの茂太郎が、そこで途方に暮れてしまいました。
あの天神山で焼き殺されているマドロス君がマドロス君であるならば、今、ここを小舟で通り過ぎているマドロス君がマドロス君であり得るはずがない!
どうしたのだろう?
そこで思い乱れた茂太郎は、前後の思慮もなく、大声をあげてしまいました、
「マドロスさあーん」
舟の櫓拍子は相変らず聞えるけれども、返事はありません。
では、あの過ぎ行く舟の中の人はマドロスさんではないのか――いや、たしかに、あれがマドロス君でなければ、ほかにマドロス君があろうはずはない。
もしかして、自分の眼に誤りがあったのかと、ちょっと眼をそらして天の方を見ると、いつも見るカシオペヤも、オリオンも、月光に薄れながらはっきりと見える。海の波も、陸の色も変りはない。ひとり、この眼でマドロス君だけを見誤るはずがない。そこで、茂太郎は二度《ふたたび》、大きな声で呼んでみました、
「そこへ行くのはマドロスさんじゃないかエ、マドロスさん!」
けれども、いっこう手答えがなく、舟はそのままグングンと力限りに漕《こ》がれて行ってしまう。しかし、漕がれて行く先は、遠く外洋へ出でようというのではない、近く岸に沿うて、そうして、遠見の番所、造船所の下の方へと、筋を引いて行ってしまうのです。
七
唖然《あぜん》として、岩角に隠れた舟を見送っていた茂太郎が、またも思い返して天神森の方を見ると、さきほどの火は大分に薄れてゆきましたが、この時、ちょうど、蜘蛛《くも》の子を散らしたように、柿の実をバラ蒔《ま》いたように、その真黒な天神森から、点々として、多くの火影が飛び出したのを認めました。
提灯《ちょうちん》か、松明《たいまつ》か知らないが、おのおの小さな火の子を手にして、多くの人数が、崩れ出したことはたしかです。
そうして、見ているうちに、右の火の子が、四方へ散り乱れたけれども、やがてそれがほぼ一つになって、長蛇のような形で、こちらへ向いて来ることもたしかです。
茂太郎は、今それを怖れ出しました。
とにかく、一目散に、番所まで逃げ込むことが急務だと考えたものですから、また、息せき切って砂
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