今まで、やっぱりイヤなおばさんで通して来て、その噂《うわさ》を持ち出されてさえ、逃げたではないか」
「皆さんが、イヤなおばさん、イヤなおばさんというから、それでわたしもイヤなおばさんにしてしまったのではないか知ら。いったい、あのおばさんのどこが、イヤなおばさんなのでしょう」
「うむ――どこといって聞かれては、わしにもわからないがね、いい年をして、若い男を可愛がるなんぞは、ずいぶん、イヤなおばさんの方じゃないか」
「浅吉さんのことですね……ですけれどもね、年上の女の人が、若い男を可愛がるのはいけないことか知ら。いいえ、それはいいことじゃないにきまっていますが、浅吉さんの方にもイケないところがあると思うわ」
「どっちにしても、いい年をした亭主持ち――ではない、後家さんが、若いのをつれて温泉に入りびたって、ふざけきっていることは、人の目にいい感じを与えはしまい」
「それはそうですけれど……世間に類のないことじゃなし、体裁のいいことじゃありませんけれど、殺してやるほど憎いことじゃありませんね」
「そうか知ら」
「ですから、不思議なのね、蔭ではみんなイヤなおばさん、イヤなおばさん、と言いながら、表ではみんな追従《ついしょう》して、あのおばさんを座持に立ててしまって、あのおばさんの命令が、夏中の白骨の温泉いっぱいに行われたじゃありませんか。ただイヤなおばさんだけなら、たとえ表面のお追従にしろ、人があんなに従うはずがありません。やっぱりあのおばさんはあれで、あの人だけの人徳を持っていたのじゃないか知ら」
「そうか知らん」
「わたしに向っても、ずいぶん親切でした。イヤなおばさんだから、そのつもりでいなくちゃいけないと思いながら、わたしは、ついついあのおばさんの親切にほだされてしまっていたんですね」
「結局、お雪ちゃんのためには、イヤなおばさんではなく、好きなおばさんだったのか」
「好き……好きとは言えませんけれど、イヤがる理由がなくなってしまいます」
「では、やっぱり好きなおばさんなのだ。その好きなおばさんであればこそ、白骨からこっちへ来る間、お雪ちゃんについて廻り、昨夜も、お雪ちゃんが寒かろうと心配して、わざわざその約束の着物を持って来てくれたものかもしれない」
「ずいぶん気味が悪いけれども、そう取れば取れないことはありませんのね。あのおばさんの魂魄《こんぱく》が、わたしたちを恨んでじゃなく、わたしたちを懐かしがってあとをつけるのなら、この着物も、全くかわいそうな因縁だと思いますワ、そんなにいやがることはありませんねえ」
「そんなら、その着物はお雪ちゃんへの授かり物だから、遠慮なく身につけているのが、かえって回向《えこう》というものかも知れないぜ」
「それでも、わたしは、これを身につけている気にはなれません、見ると、あの時のことが思い出されて、おばさんがかわいそうでなりませんもの」
「したいざんまいをして死んだのだから、かわいそうなこともあるまい」
「なんにしてもいい、わたしはこの着物を焼いてしまって、おばさんの思いが残らないように――お経をあげてあげましょう」
四十二
お雪ちゃんは、その着物を抱えて外へ出ましたが、土手下の枯芒《かれすすき》の、こんもりした中へ、その着物を置くと、自分はひとりふらふらと川原の方へ出てしまって、川原の中を屈んだり、伸びたりして、さまよいながら、胸にだんだん嵩《かさ》の増してゆくのは、燃料となるべき薪《たきぎ》を集めて歩いているのに違いありません。
薪を集めつつ、河原を進みゆくうちに、採集の興味が知らず知らずお雪ちゃんを導いて、中洲を越えたり、水たまりを飛んだりして、川原の中へと深入りをしてしまいました。
深入りをしてしまったといったところが、本来、川幅の知れた宮川の川原のことですから、深山大沢に迷いいったのとは違い、深く進んだと思うのが、実は行きつ戻りつしていることに過ぎない。
そうして、蘆葦茅草《ろいぼうそう》が枯れ枯れに叢《くさむら》をなしているところ、それが全く断《き》れて石ころの堆《うずたか》いところ、その間を、茸狩《きのこがり》か、潮干狩でもするような気分で、うかうかと屈伸しながら歩んで行くと、当然、到着すべき一つの地点に達して、そこで初めてお雪ちゃんが、あまりのことにまた驚愕狼狽《きょうがくろうばい》しなければならぬことになりました。
その、ある地点……それは、お雪ちゃんが今まで全く忘れていたところのものでありました。前の晩に、この川原をあてどもなく歩いて、そうしてこの蘆葦茅草の中に、ふと白い長い箱のようなものを見出して不審がり、近づいて見ると、それが不吉にも、人間のぬけ殻を蔵《しも》うた棺であることを知り、とてもいやな思いをして、あわてて逃げて帰ったことのあるそのものが、現にまだここに置き放してあるではないか。
何という冥利《みょうり》を知らぬ人たちだろう、あの時は火事場騒ぎだから、ここまで持って来て置くのもやむを得ないが、今となって、まだ放りっぱなしにして置くとは。
お雪ちゃんが、それを、もう少し早く気がついたならば、単にこの白いものが、まだ動かされないで置かれてあることだけを知ったならば、一目見ただけでこの場へ来るのをいやがって、前の時のように、眼をふさいで逃げて行ってしまって、いやな感情は消えないまでも、後の問題は残さなかったのでしょうに――それは、接近するつもりなくして接近し過ぎていました。
その接近があまり急激に来たものですから、接近した時はもう退引《のっぴき》することができません。見まいとしても、その全体を見なければならないところまで来てしまっていた。それがために、見てはならないものを見せられてしまいました。
特に、最も悪いところの部面が、お雪ちゃんに見せるためにのみ、展開されてでも置かれたようなものを、遠慮も、割引もなくそのまま、いやおうなしに見せられてしまったのは、子供が、不意に後ろから居合抜きに抱え込まれて、奥歯を抜かれてしまって、泣くに泣けないような有様です。
あの時までは、棺も外面だけでしたが、この時誰がしたか、その覆いが取払われて、そうして、蓋《ふた》がコジあけてある。コジあけた隙間《すきま》が、一メートルばかりの長方三角形に開いて、そうしてそこから中がガランと口をあいているところを、いやおうなしにお雪ちゃんが見せられてしまったから、もう、避けようとしても避けられないのです。面《かお》をそむけても遅いのです。
かえって、その棺の蓋の隙間に引き入れられて、怖《こわ》いものを飽くまで見なければ、動けない作用にひっかかってしまいました。
その寝棺の蓋をコジあけたところから、半面を現わしている、棺の主の面。
それをお雪ちゃんは、一目だけで逃げることを許されないで、後ろに強力のものがあって、その頭をグンと押え、そうして、
「もっと見ろ、もっとよく見ろ、間違えないように見届けろ」
と、ギュウギュウ押しつけられているような、見えない力を如何《いかん》ともすることができません。
「あ、イヤなおばさん――」
もう泣くにも泣けない、叫ぶにも叫べない、棺の中からこちらを見ている人は、今も問題の、イヤなおばさんです。
四十三
不思議な圧力で、それを充分に見届けさせられて、お雪ちゃんは、その圧力が解けたと見た時分に、自分の周囲を襲いかかる、またも不思議な有形動物の形に驚かされました。
「叱《しっ》! 叱!」
それは思いがけないことでしたけれども、有り得ない動物ではありません。
このあたりに彷徨する野良犬が五六頭、雨降りの時候でもあるまいに、まっしぐらにくつわを並べて、このところまで飛んで来て、息をフウフウ吹きながら、棺の廻りに走《は》せつけ、飛びついたり、はねかかったり、臭気をかいだり、上へ乗ったり、下をくぐったりして、この寝棺を取巻くのでした。
「叱! 叱!」
お雪ちゃんは、この時、自分ながらわからない一種の勇気が出て、有合わせた薪の太いのを持って、群がる野良犬に向いました。
お雪ちゃんの、竹の棒の音に驚かされた野良犬は、それに一応の挨拶でもするように、一応は飛び退くけれども、忽《たちま》ち盛り返して、以前のように棺に向って飛びつき、狂いつき、或いは蓋の外《はず》れを歯であしらって向うへ突きやり、その有様はどうしてもくっきょうの獲物《えもの》――御参《ござん》なれ、われ勝ちにという浅ましさのほかにはありません。
お雪ちゃんはあしらい兼ねました。全くこの犬共はお雪ちゃんの手には余るのです。
でも、犬共は、人間に対する敬意を以て、お雪ちゃんの小腕ながら、その振り上げた杖には、一応の遠慮をするだけはしますが、その影がこちらへ動けば、もう犬共はひっついて来ます。お雪ちゃんの振り上げる杖の瞬間だけに敬意を払って、それが戻るとすぐにつけ入ってしまいます。
「叱! 叱!」
お雪ちゃんをして、もう自分の力ではおえないと覚《さと》らしめて置いて、そのうちの最も獰猛《どうもう》なのがその策杖《さくじょう》の二つ三つを覚悟の前で、両足を棺へかけて、鼻と口を、棺の中へ突込んでしまって、後ろに振動した尾を、キリキリと宙天へ捲き上げてのしかかっています。
「おや、こりゃ犬じゃない、山犬じゃないか知ら、狼じゃないか」
お雪ちゃんが、その一頭の獰猛と貪婪《どんらん》ぶりに身の毛を立て、こう思ってたじろいだのも無理はない形相《ぎょうそう》でしたが、事実は、やっぱり野良犬の一種で、狼や、山犬に属するものではなかったようです。ただ、飢えから来るところの不良性が、極度に、この動物を、獰猛と、貪婪と、残忍の色にして見せたものでした。いかに、本来温良なる家畜動物も、飢えと放縦とに放し飼いをすれば、それは猛獣以上の猛悪を現わすことはあります。
それと同じことに、いかに温和なる人間も、非常の時には、そうして、人間の権威を他動物に向って示さねばならぬ時は、別人と見えるほどの勇気を、どこからか持ち来《きた》すものと見えて、苟《いやし》くも人間の死体の神聖を冒涜《ぼうとく》せんとする不良性動物の僭越と、兇暴とに対し、かよわいお雪ちゃんが、その全力を挙げて擁護の任に当らなければならない覚悟と、力とを与えられたことは、案外のものでした。
お雪ちゃんは、片腕にかかえていた薪《たきぎ》を振捨て、片手に持っていた杖に全力をこめて、僅かに棺の中へ首を突込んだ山犬に似た奴を思いきり打ちのめして、さすがに驚いてハネ返ったところを、手早く棺の蓋《ふた》を仕直して、しっかりと押え、そうして、早くもその手近にあった手頃の石――手頃の石といっても、ふだんのお雪ちゃんならば、ほとんど持ち上げることもむずかしかろうと思われるほどの大きさと、重さとあるのを両手にウンと持ちあげて、それを、いま蓋を仕直したところへ重しに、ドッカとのせてしまいました。
この間《かん》の働きは、お雪ちゃんとしては見られないほどの早業と、力量とを持っていましたが、それをするともう大丈夫と思ったのか、下へ投げ捨てた薪を、またも小腋《こわき》にかいこむと共に、走り出しました。
後をも見ずに走りました。
四十四
そうして、お雪ちゃんは、屋形船のところまで帰って来たのですが、その時は、もう口が利《き》けませんでした。
船べりにとりついて、はあはあと激しい息をついているのです。
もしこの時に別の事情がなかったならば、お雪ちゃんは一時、その場で昏倒してしまったかも知れません。また、もし船の中へ走り込む元気があったならば、いきなり、竜之助の膝にしがみついて、うらみつらみを並べたかも知れません。
そのいずれでもなかったのは、ちょうどこの際、船の向う側の一方で、久助さんの声を聞いたからです。しかもその久助さんが、何かその向うを通行の人と、かなり高声で会話をしていたのが、お雪ちゃんの耳に入ったものだから、この危急の際に、辛《から》くも踏みとどまって、多少の遠慮の心を起したのが、つ
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