たのだ、しかもその養子の氷人《なこうど》が、やっぱり天下第一の秀吉の直接の口利きであっただけに、養子ではあったが、不肖の子ではなかった。永徳を知れば当然、山楽を知らなければならぬ、永徳の絵にも、山楽の絵にも、落款《らっかん》というものは極めて少ないから、いずれをいずれと、玄人《くろうと》でも判断のつきかねることがあるが、よく見れば必ず、永徳は永徳であり、山楽は山楽でなければならないはずのものだ――永徳は早死《はやじに》をしたが、山楽は長生《ながいき》をした、およそ長生すれば恥多しということを、沁々《しみじみ》と体験したもの山楽の如きはあるまい。山楽がちょうど四十歳前後の時に不世出の英雄であり、自分を絵に導いてくれた唯一の知己恩人である秀吉に死なれて、その豪華一朝に崩れて、関東に傾くの壮大なる悲劇を、まざまざと見せられた山楽、家康がしばしば招いたけれども行かない、ついにその不興を買い、身辺の危険をまでも感じて、やむなく家康にお目にかかりに罷《まか》り出でたことは出でたが、もとより家康は秀吉ではない、英雄ではあるけれども英雄の質が違う、例の『画史』に――恩赦ヲ蒙ツテ東照大神君ヲ駿城ニ拝シテ
前へ 次へ
全323ページ中79ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング